永遠に生きる

生死が在るのは肉体だけである。

死は生きていなければ認識できない。

死んだら、その死を確認できないからだ。

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再びインドへ

2年半に及ぶ’自然と健康の会’の最後の

インドの仏跡を巡る旅の準備ができた。

20年前から5度インドのバンガロールに近い

プッタパルティのサイババのアシュラムに

妹・妻や子など連れて1か月ほど滞在した。

2度目の訪問の時、

サイババの手から金の指輪をスルリと貰った。

そんな想い出も’裸のサイババ事件’の検証で

すっかり忘却の海に流されてしまった。

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パンドラの箱(何のために生きるの?)

中学2年の国語の教科書に

ロマンローランのジャンクリストフと叔父のゴッドフリートの会話

「何のために作曲するんだい?」

その問いは

「何のために学び、生きるのかい?」

と、僕に語りかけていた。

その答えをヨガ(統一・神我一如)は教えてくれたが

高2のとき、そのヨガ瞑想から精神病院に入ってしまった。

その問いと答えをパンドラの箱に30年間隠し、

サイババの「神仏よりも家族を大事にしなさい」という言葉から

そのパンドラの箱を開けてしまった。

その箱を開け閉めしながら、

その答えを今の今68歳になってもまだ探し続けている。

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神仏とは何か?

”何のために生きるのか?”

ヨガが教えてくれた答えは

「神と一体になること」

「仏になること(悟る)」

ヨガもヒンズー教そして仏教も、そのルーツはインド哲学の個我と神我(梵・オーム・涅槃)が一つであることを信じ、また悟るそして体験するのが目的である。

それは一神教のユダヤ教・キリスト教・イスラム教のルーツが名が違っても同じ一つの創造主である神を信じて生活するルーツと類似している。

その神も仏も、「人の命の生死をコントロールする存在」であり、「人の命の源泉」であることは言葉が違っても、同じ存在である。

そのため、命をもたない物質や振動をも含めた宇宙や地球そして自然の生きとし生ける存在の中の人間の生命に特に焦点を当てたのが神仏であるといえよう。

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永遠に生きる

生老病死の四苦は肉体、それは自分の肉体ではなく他人の肉体のことである。

自分の死は自分で認識できないように

その他の自分の生老病も、自分がそれを認めなければ無いと信じることもできる。

生老病の最後は死であるから、生老病は死に至るまでの途中経過にすぎない。

死が自分で認識できない以上、その死に至る生老病の過程も逆の再生・若さ・健康も波のように把握さえできる。

つまり、

自分にとって、自分の死はなく、永遠に生き続ける存在だとしか認識できない。

しかし、他人からみれば、その人は一瞬の命としか映らない。

永遠の命を持つのは神仏だけである。

その神仏を認識できるのはその自分だけであり、他人には不可能である。

それは神仏は自分の心の中だけにあり、他のどこにも存在しない。

そして、

神仏は今生きている人の77億人の数だけあり、みな似たり寄ったりはしているものの、微妙に違う存在であるとも言える。

自分は永遠に生きる神仏だという認識は、他人もまた永遠に生きる神仏だという想像展開もできる。

それは過去現在未来の人間との魂的会話も、自由に想像し楽しめることもできる。

いろいろな小説・ドラマや映画でも、そうした空想をこよなく喜怒哀楽できるのも、人はみな永遠に生きていると信じ、想像できるところから生まれてくるのだろう。

みな永遠に生きている・・死など無い

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