自然であれ!自分らしく!真の自由であれ!

健康であること

平和であること

この二つはピタリとはまるが

自然であること

この意味が抽象的で、どうもしっくりこない。

 

具体的に整理してみよう・・

無理をしない!

自然に対峙するのは人間である。

人間は自然の一部であり、その力に逆らうことはできないのに

その自然に逆らおうとする行為のとき、自然と人間は対峙する。

では、

人間が空を飛んだり、原発を作ったりする科学的行為は自然に逆らった行為であろうか?

科学は自然の力を確認し、生活に応用する技術(方法)である。

科学は自然に対峙した行為ではなく、自然に即し、応用する技術(方法)である。

だが、科学力を用いて、結果的に核戦争をしたり、自然破壊する行為は不自然極まりない行為に感じる。

それは

人間は自然に逆らったためでなく、自然に即し、その自然力で 自分の欲望を満たそうとした結果である。

人間は自然の産物であり、けしてその自然に逆らうことも、不自然に動き回ることもできない。まして、自然を征服したり、自然そのものを破壊することもできないという結論を導き出すことができる。

だが、どうして 科学がまるで暴走し、自然破壊する行為に映ってしまうのだろうか?

それらは自然と対峙するかのような幻覚的欲望に起因した病的症状である。

健康と対峙する病気も、平和と対峙する戦争も、みな自然力による営みの一部にすぎない。

自然においては、健康と病気、平和と戦争 という対立構造は存在しない。それらは命の生死の繰り返しのような症状にすぎない。自然でないものはこの世には存在していないともいえる。

 

では一体なぜ

自然であるということ

を追究しようとするのか?

 

それは

自分の欲望を抑えて、その先の行為の結果を自然予想するためである。

例えば

食べ過ぎれば苦しくなって胃酸過多になるのを注意せよ。

と、自分に言い聞かせるようなものである。

 

自然に即した科学は

原因を探る解析、先を予想する演繹的理論と実験から成り立っている。

だが、

理論も実験も、人間的欲望で データー量の少なさ、改ざんで自然の姿を映さない間違った知識を導き出すことがけっこうある。

その間違いが起こる原因はそれを行う人の野心(欲望の一部)が多い。

 

つまり

野心のような他人よりも秀でようとする欲望(エゴ)が不自然な行為といえる。

別角度でいうなら、

天からみれば、人はみなどんぐりの背比べ、才能の差などほとんどない。

天の上に人を作らず、人の下に人を作らず。

 

自然であることは・・

他人と比べて秀でようとしたり、卑下しようとしたりするような無理をせず、

今の自分らしく 今の自分ができることを無理なくやることである。

それが

自由である。

他人より上にいく幻的自由でも、下にいく幻的自由でもなく、

他人の優劣を比較しない自分らしさの実現が真の自由である。

この自分らしさの真の自由に生きる道が自分の無理のない自然な生き方である。

Natureの語源

ラテン語L.nascor 「生まれる」

ラテン語の形容詞は L.naturalis 「天然の、生まれつき」

Natureは「生まれる」ことで天然に持っている「自然な気質」から、

「自然」、「気質、本質」などの意味がある。

自然であるという意味は英語でも日本語でも・・

生まれつきの自分らしさ(才能)、それが病気や障害があろうとも、他人と比較せず、天然な気質本質をそのまま受け入れていく生き方である。

自然な生き方とは自分らしく生きることである。

自分らしく生きることは

他人と比較して優劣つけず、

他人を無理に押さえつけたり、

無暗に受け入れたりしないで、

自分ができる範囲内で精いっぱい生きる生き方である。

 

他人に強制したり、隷従することなく

自分のできることを自分らしくしていく

それが真の自由な生き方であろう。

 

自然であれ、自分らしくあれ、真の自由であれ!

 

 

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