理解が心を創る

▼ 知と愛

 学生のころ、ヘルマンヘッセの「知と愛」の小説を読んだことがある。知的な人間と愛情豊かな人間の生き方とその友情を表現したものだったが、たまにこの対照的な二人を思い出し、知と愛の関係について、考え直すことがある。

 当時から、知と愛は双頭の鷲のような平等の関係にあると思っていたが、最近、そうではなく知の方が愛より上に立っているように思えた。

 戦争を知らない子どもたちの世代である私は世界の価値観がもっとも高いのが「愛」であるように教育されてきたように思う。そのため、すべてに愛を優先して考えてきたが、ときどき、その矛盾に悩まされることがあった。

 とくに、サイババの「世界の宗教は一つ、それは愛の宗教」という言葉にいちころだった。でも、それが不可能であり、インチキ宗教を創り出す言葉の誘惑だった。

 キリストの「右の頬を打たれば左の頬を向けよ」という愛だって、キリスト教国と思われる国の歴史はまさに十字軍や米国のやり方は正義をふりまわし、「弱肉強食」の軍隊で制圧してきたのはどうにも解せない。

 第一、科学的ものの見方や教育をうけた人間が、オーム真理教のようなテロ集団の幹部で毒ガスをつかって無差別殺人をしたのも解せない。彼らはポア(殺す)ことで、相手を救うと本当に思いこんでしまったのはどういうわけだ!

 お金のシステムにしても、国民の生活を守るべく生まれたお金の発行をどうして国が行わず、一部の銀行に独占的権限を与えるのか、しかも、国が金持ちに借金して、その利息を払うことに対して、どうして疑問を持たないのか?

 どうあがいても、同じような人間なのに、片方は1時間で数億の収入を得、片方は時給数百円しか得られないようなお金のシステムに、何の疑問ももたずに、それが正当であるかのように従ってしまうのか?

 宗教には洗脳とか、催眠術のような、自分の意志とは違う教祖や他人の意のままに動かされることがあるが、それがどうして可能になるのだろうか?

 キリストが生まれ変わるというように、亡くなった人間が生まれ変わると本当に信じることができるのはどうしてだろうか?

 ありえないこと、あったことが一度もなかったことを、人は信じることができるのはどうしてだろうか?

裁判において、冤罪があるが、誤解で相手を有罪に、ひどいときには死刑にしてしまうことがあるのはどうしてだろうか?

 この答えを今朝浮かんだ!

「理解が心を創っている」

 そう考えれば、これらの疑問が解けるのである。誤解にしろ、想像にしろ、真の理解にしろ、人は相手に対するどういう理解をするかで、その相手にたいする心が生まれるのだ。

 理解するとは知るということである。知るには正解も誤解もあるが、それによって、喜怒哀楽という心が生まれるのである。

つまり、知から愛が生まれる。愛から知も生まれるが、それは後からである。知から愛がまず生まれ、その愛がさらにその知を深めるのである。それは知が愛よりも上に在るということでもある。

 今までは世界の価値観がもっとも高かったのは愛だったが、これからの時代のもっとも高い価値観を「まず理解」にしていくことが必要になってくるように思う。

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