名前が無くなる時

 人の始まりは自分である。生まれたときには名前を付ける。

 でも、人が死んだら名前を消すだろうか?

 日本の仏教では戒名といって、あの世に生きる新しい名前を付ける。

 名前と所有権とは切っても切れない関係にある。人が死ぬと他の人にその所有権を移転できる。いわゆる、遺産相続である。

 でも、元の所有者の名前は消えて、新しい所有者の名前が付けられる。その多くは血縁という結びつきである。

 宗教にとって、特に亡くなった教祖の名前がもっとも重要になる。その名前はその宗教の教典の法律よりも重要になる。しかし、それは亡くなった人の骨をその生涯よりも大事にするような本末転倒ではないだろうか。

 先祖崇拝は世界のどの民族でもあるが、はたして、先祖の名前をみな伝わっているだろうか? まして、先祖の名前よりも神仏のとくにその教祖の名前を一番に唱えるのは空しい願望になると思えるのだが。

 何故、宗教から科学へ、 科学から環境へ 時代が移っていくのだろうか?

 これは、亡くなった人の名前が消えていく方向性が新しい時代を築いてくるということではないだろうか。

 自由がもっとも貴重であるのは、自由とは名前があって始めてそれが広がることであるから、自由たらしめるものは、それを支える無名の多くの人の縁の下の力があるからだ。

 自由とは名前が在るときと、名前が無いときがその存在たらしめているのである。

 人間関係において最も問題を起こしているのが「自我」という意識である。もし、自我の名前が消えたらその意識も消えてしまう。

 人が死んでしまうと名前が消えない死んだ人という霊魂になって、良いことも悪いこともしだすのである。もし、人が死んでしまえば同時にその名前を消すということがあたりまえになれば、霊魂とか宗教がさほど重要な存在ではなくなる。

 もちろん、人は心をもち、名前が消える時間に余裕を持つことは大事なことである。でも、その名前の保持期間があっても、いつかは消えることが次ぎの時代に力強く生きるには必要なことであろう。

 生まれ変わりという思想があるが、これは霊魂は永遠ということを前提とした思想である。名前は変わっても、その霊魂は一つという思想はその始まりと終わりがあいまいになって、大きな矛盾をもたらす思想である。

 つまり、始まりの数と終わりの数が合わないから一つの霊魂にはなりえない。

 それは大量の種子が再び生き残って元の植物になれる確率は実に少ないのである。生き残り競争というよりは、運不運という奇跡的事実であろう。

 人の霊魂だって、植物の種子と同じように考えていいのでないだろうか。血縁というよりも、人間という種縁による運不運になるように思える。

 人が生まれ変わるとしたら、まず、名前は消える、次に死人に生者は選択できない。未来の子どもが、亡くなった人の意志を受け入れるかどうかが、生まれ変わるときであろう。

 それは過去の人が未来の人を決めるのではなく、未来の人が過去の人をよみがえらすかどうかにある。「古きを訪ねて新しきを知る」ということであろう。

 その場合、亡くなった人の真の姿はどんどん変わってきて、名前は同じでもまったく違った姿になってくる。例えば、キリスト教やユダヤ教やイスラム教はもともと同じ神の名前から生まれたが、その後の人が新しい意志を付け足して、まったく違った名前と神の名前にして、その信仰を築いたといえよう。

 これは宗教の大事さではなく、今生きている人の意志がどれほど大事かということにつながっているのである。

 それは、もし生まれ変わりがあるとしたら、次の世代の人がその意志を引き継ぐかどうかにすべてかかっているということになるということだろう。

 

カテゴリー: 徒然草 パーマリンク