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捨てなければ造れない

水曜日, 8月 17th, 2011

 東京の家を造る準備にとりかかった。まず山梨の自宅で、鉄骨などの加工などをして、試作してから、東京に持っていこうと思った。

 そのためには、ビニールハウスを作業場にしなくてはならない。そのためには、物置を整理しなくてはなrない。そのためには、大量のいらないものを捨てなくてはならない。

 今日、物置を整理していて、いらないブラウン管のテレビや大量のビデオ・テープ・CDなどがでてきた。また、数年も使われていないものがたくさんあった。引越のときに、相当捨てたが、「まだ使える」「これはどうにも捨てられない思い出品」などが残っていた。

 東京から丹波山村に引越して、捨てた量は3トントラック4台分くらいあった。家を壊して捨てた量は計算していない。丹波山から山梨市に引越するときには、3トントラック2台分あった。

 親子三代分の思い出と、過去の事業の残骸がほとんどである。今回のゴミはその経過から抽出され、生き残ったものと、改装や新事業をした残骸である。

 友人が3DKから1Kに引っ越すことになって、親子2代分を相当整理しなくてならないが、思い出が強すぎて、整理するのが難しくなっている。

 親の思い出を最小限にしようとしたら、何を残すだろうか? 私は写真だと思っている。写真といってもアルバムにしたらダンボール一箱にもなる。それでは大きすぎるのだ。私は親の写真・資料はすべてハードディスクに保存して、最終的に信号だけにしたいと思っている。そうすれば一㎝四方のSDカードにしまうことが可能であるからだ。

 でも、一㎝四方のデータに変換できたとしても、現物はなかなか捨てきれないものである。位牌をデータにしても、位牌そのものを捨てるのはなかなかできるものではない。さらに遺骨ならなおさらである。

 とはいえ、データはいくらでも小さくして保存可能だが、現物はどんどん捨てなければ新しいものを造ることはできない。永遠な物は存在しない。どんな物も破壊と創造が信号のマイナスプラスの繰り返しによって常に変遷している。物は諸行無常なのである。

 原子炉の即停止か、ゆっくりと40年間かけて停止かという議論があるが、そもそも、原子炉で生産された放射性廃棄物は捨てる場所がどこにもないのだ。もし、人類を末代まで死においやる放射性廃棄物をこのままどんどん作り続けたら、原発事故にあった福島のように地球全体がなることは明らかである。

 だから、原子炉はもともと造ってはならなかったのだ。即停止は当然であり、保管場所ではなく、即最終廃棄処分場を造ることが先決なのである。

 放射性廃棄物を捨てることができなければ原子炉を造ってはならないのである。ゴミも思い出品も捨てなければ新しい品も造れないし、新しい思い出も築くことはできないのである。

 いわば、捨てることは造ることなのである。逆も真なりで、造ることは捨てることなのである。

 但し、捨てることと、造ることの順番が必要である。捨てることを目標にしてはならない。造ることを目標にしなくてはならない。

 新しく家の設計が完成してから、古い家を壊すことが大事で、古い家を壊してから新しい家を設計してはならない。もし新しい設計で、古い家の何を残すかもそこで決まるからである。

 思い出も同じで、過去の思い出を消そうとするのが先ではない。未来の生活が計画できてから、過去の何を残し、何を捨てるかが決めることができるからだ。

 原子力から再生可能なエネルギーへ徐々に転換として、再生可能なエネルギーを確保してから危険な原子炉を廃止するというのは、この「捨てなければ造れない」という理論の心理的すれかえである。それは単に電気供給力の保存だけの理論であって、人の命の安全の理論ではない。

 原子炉は最終廃棄場と運転が、人の命の理論であるが、原子力エネルギーと再生可能エネルギの転換は電気の確保だけの理論であって別なのである。

 禅の修行で、自分の心を空にするのがあるが、これはなかなかできない。心とは欲望や思い出がつまった執着のようなものである。その思い出や欲望を捨てることが空になることだからだ。

 空を体験する難しさは「空」を目的にするからだ。心をまったく空にすることは生きている限り無理である。生きる欲求そのものが心の核心であるからだ。心を空にするのが大事なのではなく、新しい欲求が大事なのだ。新しい欲求を心に入れれば、古い欲求は自然に消えていくので、その過程において、古い欲求は空となり、新しい欲求が実になるということなんだ。いわば、古いものと新しいものが交代する新陳代謝みたいなものが「空の体験」であり、それは無意識で誰でも行われている。

 失恋を癒すのは、新しい恋なんだ。