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スピリチュアルというのは社会を造ることなのか

木曜日, 8月 18th, 2011

 人生が生への山登りから、リターンして、死への山下りの年齢になった。個人の生死は一回限りだ。でも、卵からにわとりが生まれ、にわとりが卵を産むように、個人は社会を築き、社会は個人を守る。

 個人の生死はこの世の肉体の世界ではあるが、あの世はスピリチュアルな世界のことであるという発見をした。つまり、この世の個人の肉体の死は社会における生き続ける魂になるということだ。

 このあの世であるスピリチュアルな世界というのは何か?というと、それは社会を築くことなんだと思えた。

 山梨の祭りで花火をしたが、今年は外部の露天の夜店がでなかった。そのため、まことに寂しい祭りになった。市の主催者にすれば、花火という地元のためのイベントを他の業者の金儲けに利用されたくなかったのだろう。

 催事屋とか祭り屋というのが全国を回っている。いわば、寅さんの仕事だ。祭りに寅さんがいないと寂しいのと同じで、外部からの夜店が出てこないのは寂しくなる。それは祭りだけでなく、大手のコンビニやスーパーが地元に進出しないと、寂しい町になるようなものである。

 地元の花火のイベントなんだから、夜店も地元でたくさん出店すれば理想的である。地元の業者が花火大会にあわせたお店を開けば、寂しいどころか、待ち望んだ楽しい祭りになる。小さい村だとそうしているはずだ。

 地元にイベントを盛り上げるには、地元の業者だけでなく、住民もお店をどんどん出せるようにすると、盛り上がる。とくに、私の店のようなフリーマーケットはどんな人のでき、夜店だって、自分たちの演出できるものだ。バーベキューをして楽しむように、夜店を出しながら花火を楽しむのもいいではないか。

 最近、気になるのが、孤独老人問題である。身近で、老老介護をしていた友人が、介護する92歳の母親が亡くなってしまった。兄弟も亡くなっていたので、孤独になってしまい、生きる目的を失ってしまったのだ。

 以前、スピリチュアル的には孤独になるということは死を意味するのだが、それが本当の死ではなく、「自分が1人であるという思いこみ(病)」である。スピリチュアルの世界では公私一体の感覚が基本であるから、個人の孤独というのはありえない設定なのである。

 スピリチュアルというのは社会と翻訳してもいいもので、その社会が独裁政権のように固定化したら、最悪な社会であり、個人は窒息してしまう。社会は個人の集合であるように、実際には固定的には存在しない。個人の集まりの状況によって、その社会の大きさや性質はどんどん新陳代謝しているのが健全な社会である。新しい個人が次々生まれ、古い個人は新しい個人をサポートしていく、いわば親子兄弟の家族のような社会が理想的である。

 固定化した社会ではなく、常に新しい社会を築き上げていくような流動した社会を築く力がスピリチュアルな力だといえるだろう。

 孤独老人はスピリチュアルに生きようとすると、孤独という病を吹き飛ばすことができる。スピリチュアルに生きるというのは、新しい社会を築こうとすることである。社会とは大きな家族のようなもので、たとえ、自分に子供や兄弟がいなくても、他人であればたくさんの子供達が身近にいるはずだ。例えば、老人経営における保育園や老人ホームを造れば新しい社会への貢献ができることになる。

 孤独老人が集まって、新しい老人ホームを造ったら、それはまことに新しい社会を築くスピリチュアルな生き方になるだろう。それは地元で花火大会をするようなものである。同じ気持ちの人同士が集まって、一緒に食べ、一緒に遊び、一緒に築いていくのがスピリチュアル世界なのだろう。