法の制定が最初にして最後だ

オランダのハーグにある国際司法裁判所(平和宮)

 より安心して暮らせるには貨幣制度の改革が一番だと思い、それを追求してきた。

 一方現実的には、3月16日の税金申告最終日に私の申告が終わった。税額が、定額給付金の額よりも、15000円多く支払ったので、「結局、給付金は即税金でもっていかれた」という感じになった。給付金をもらおうともらうまいと、買わねばならないものが子の入学に合わせて山ほどあるので、特別消費を増やすことになるとはとても考えられなかった。

 最近、凶悪事件の判定が、「死刑か無期懲役か」で話題になることが多い。

 青年の頃、私は死刑制度に反対だった。人が人を裁き、まして人の命をとる権利などあってはならないと思っていたからだ。しかし、被害者の声とその悲しみと怒りを、テレビなどから聞かされると、「もし、自分も同じ立場だったら。殺人者の死刑を望むだろう」ということは間違いのない感情だった。

 さらに、「もし自分が殺人者だったら・・・」と想像すると、「被害者に対して、自分の死をもって償いをしよう」と決心するだろう。「それまで、自分のもてるすべてのものを被害者に受け取ってもらえるようにする」だろう。でも、自分の力でそれができなければ、司法で、それを実行してもらえるように、お願いするのではないだろうか。

 死刑についての慣例では、殺した人数が2人以上の場合のようだ。それもまことに納得がいくように思える。人の命が1:1の場合は、善悪は別として、その命の重みは等しいからだ。もちろん、これは正気の場合の殺人者に適応されることだが。

 3月18日 闇サイト殺人 2人死刑1人無期の地裁の判決があった。これは、社会的影響の度合いが大きいための特例である。3人で1人を殺したということに対して、3人を死刑にするというのは、1:1の命の原則に当てはまらないように思えるが、そうではない。むしろ、この場合は、3人で1人を殺害したから、1:1の原則で、全員が死刑にならざるをえなかったととらえるべきであろう。被害者も加害者もそれに対しては不服はないようだ。

 社会的暴力と一人の命の重さが一つとして扱われたことは大きな意義をもつ。しかも、無期の者が自首したため、死刑をまぬがれたことも、社会的意義を認めることの意義が大きい。こうした判断は被害者や加害者には不服かもしれないが、社会的判断としては、反省すること・・自首すること・・・それが命をつなぐ一番の価値を持つことを示した意義ある判決であると思える。

 死刑制度が国によってまちまちである。しかも、法律はその国でしか適応されない。国内法のような国際的な法律はない。

 国の法律を作る支配者がその国民を虐殺していることが、国際司法裁判所で明白にされても、その支配者を拘束、その支配権を奪うこともできない。

 北朝鮮が弾頭ミサイルを人工衛星といつわって、発射することに対して、国連に訴えても、最終的に、国連安全保障理事国である米英仏中ロの常任理事国の全員一致がなければそれは阻止できない。今回は、中ロが否決することは間違いがないからだ。

 こうした、未だに第2次世界大戦終了時の力関係で、成り立っている国際連合は世界の平和や安定に対して、法的整備がまったくされていない。日本が常任理事国の仲間入りしたがっているが、それはまったく無意味に思える。国連参加国の全員の2/3の以上の賛成で法制定された方がはるかに国際的平和に近くなれる。

 さらに、公平をきして、参加国の国民の数に合わせた議決権を併用して、その2/3 または、 法制定だけは3/4くらいにしたら、どうだろうか。100%の全会一致することは、逆に、恐怖政治や絶対君主制である場合が多いのが経験的数字になっている。

 世界の基軸通貨がアメリカのドルになっているように、イラクに先制攻撃をアメリカが独自にしかけても、国連は何もできなかった。イスラエルとガザ自治区にもなにもできない。今の国際社会に法はないといえる。その法にかわるのが、アメリカの軍事力と経済力による圧力である。そのため、国連はアメリカよりも低い位置になっている。

 戦争と経済は不可分のように、安定した国際経済社会には世界の平和は最低必要条件である。そして、世界平和の最低必要条件は国際法の制定システムが、人類すべての意志を反映できるようになっているかである。

 少なくとも、国連安保の常任理事国制度を廃止して、参加国全員の意志が反映できることが必要であろう。これなくして、世界の平和も安定した経済生活もありえないだろう。

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