丹波山村の全景
ヘリで眺める・・山間の小さな村だ
人口は739人で、65歳以上が50%を超える限界集落だ。
ここで、4月19日、16年ぶりに知事選挙が行われた。結果前村長が4:1で再選された。
小さな村では立候補即当選することが多い。
この村はいくつかの地区に分かれており、そこの地区長も選ばれるが、立候補者がまずいない。小中学校のPTA会長だって、まずもって立候補者がいない。そこで、まわりが何度もお願いして、区長や会長になってもらう。なる方は頼まれるのでノーと言えなくなるからだ。
地区はさらに10数区に分かれており、その区長が毎年選ばれる。でも自分からなることはほとんどないので、持ち回り、当番制で、しかも、できる事情に合わせて決められる。
国の総理を決めることと、小さな区長を決めるのも基本的にはほとんど変わりがないはずだ。
でも、どうして、権限が大きくなるほど、し烈な選挙になってしまうのだろうか?
小さな長をするには「義務」、村の議員は「生活するお金 仕事」、知事以上は「利権? 改革?」というところではないだろうか? つまり、社会的「義務」から「権利」へと移行していくのではなかろうか。
問題は、改革である。どういう改革をするかどうかで、意見が違ってくる。議論をするように、選挙が行われるため、熾烈な戦いをするようにみえるのだろう。そして、選ぶ方としては、どちらが自分に利があるかではなかろうか。
今回の丹波山村の知事選は甲州市との合併を進めるかどうかがもっとも大きなポイントだった。あの小泉さんの郵便局を民営化するかどうかで、選挙がされたというのも、選挙が議論だといえるのではなかろうか。
今度の国の選挙のポイントが「不景気対策を具体的にどのようにするか」になることが予想できる。自民党と民主党が掲げる具体案にさほどの差がない場合は、選ぶ基準は「今の方向性を良しとするか、しないか」になってくるのではなかろうか。
意見の違いで、人間関係は大きく影響される。 それは、スポーツでいえば、応援するチームをどこにするかのような差があり、もし、阪神ファンがたくさんいる中で、他のチームを応援しようものなら、袋だたきになってしまう。選挙も同じで小さな村においての知事選で、前村長の応援が多いところに、新村長を応援する少数派になってしまうと、その村に住めなくなるような感じになる。
そこで、選挙は無記名で、誰が誰を投票したかわからないようにすることが、より自由な選挙をすることができ、まわりとうまく暮らせるコツでもある。それは、自分の意見を公表する場合も気を付けないと、うらまれて、身が危険に及ぶことさえある。とくに、特定な人を批判したり、応援した場合はなおさらである。
自分の意見をいうにも、細心な注意さが必要だと反省させられるのが、選挙でもある。選挙があるおかげで、村のことや、国のことを考えるきっかけになり、国や地域を学ぶ場になれるのだろう。
選挙は、行っても行かなくても、国や地域の事を考える
キッカケになってるんでしょうね。
「アホらしくて、選挙行かない」って云う人達の話をよく聞くと、
かなりマトモな事言ってます。
正常な神経の持ち主には、異常に思える部分があるんです。
もっともだな~と感じる今日この頃。。。
今回の丹波山村の選挙は、投票に行かなくても、結果はほとんど決まっていました。そのため、特別投票しなくても、同じ結果になったでしょう。
また、どの政治家もどの政党もみな応援できない場合、投票にいきたくならな意のは当然でしょう。それに、投票が利権の争いにすぎない場合、投票をするのがばかばかしくなります。
棄権もりっぱな主張だと思えます。そのため、投票率を政治への期待率にできそうですね。
お金のシステムを変えることができるのは政治しかないのですが、それを掲げる政党は皆無ですね。選挙に行きたくなくなりますね、まったく。。。。