農業の半分は勉強が必要みたい

 最近、畑に行かずに本ばかり読んでいる。本といっても自家採種の本だが、けっこう難しい理論がたくさん出てくるので、ついウトウトと寝てしまう。頭は荒野のようなもので、それを耕し畑にするのが勉強って感じに見えてくる。

 学生時代にウンウンうなって勉強した記憶が蘇ってきて、つい愚痴をこぼす。

「なんで、農業にこんな勉強が必要なんだよ。本書く人も池上さんのようにわかりやすく教えてくれたら、こんなに疲れないし、眠くならないのになあ」

 そこで、同じ文章を二度読んでもわからない、眠くなる場合はその部分は蹴飛ばすことにして先に進んだが、やはり、いつのまにか、寝っ転がってしまい、気が付くと寝ている自分に気が付く。

 畑仕事は麦も野菜も、葉が出れば、勝手に育ってくれるので、水をあげる必要がなく、天然の雨だけで充分だ。ビニールハウスの方にも雨水が土壌にしみこむようにしたため、やはり野菜も勝手に育ってくれる。

 私が目指しているのは勝手に育つ農業である。

 何もしなかった畑の雑草の姿を見ていると、春は仏の座が一面に繁って、夏になるとそれは枯れ、イネ科の草が替わって生い茂る。それも冬になると枯れて、春にまた仏の座が生い茂る。

 これを麦と稲で行えるようにすることができるかどうかである。野菜だったら、春夏秋冬の野菜が順ぐり育っては枯れてくれるようにすると、人は単に自分に必要な分だけ収穫するだけの楽園になる。

 自家採種も、理想的には雑草の種のように、自然生えにして、果実や種が土に落ち、そして、土の中で種が保存され、自分が生まれる時期がきたら芽を出すようにすれば、自家採種も必要がなくなる。

 そして、その畑にあった品種を自分の力で生み出し、勝手に強い雑草のように年中はえているようにする。

もし、これが成功したら、人は労働なくして、食べていけるようになる。

 これはお金にもいえる。お金は商品である。商品はいわば野菜や穀物であるから、人は労働なくしてお金をいつでも手に入れることができる。実際、不労所得者はたくさんいるだろう。

 また、この労働なくしてお金が手に入るシステムが「ベーシックインカム(最低限の所得保障)」である。機械は人の労働なくして商品をたくさん作り出すことができる。

 人がするのは労働ではなく、機械づくりであり、勝手に畑の食物がなる農法技術である。それはお金でもいえる。

 お金とは法貨であるから、法によって動く貨幣である。法とはいわば機械のようなシステムである。

 つまり、お金とはシステムである。人が作った機械と同じもので、労働で作り出すものではないのだ。世界一のお金持ちが彼の労働だけでそうなったとは誰も言えないだろう。

 実際お金はその国でいくらでも印刷すればいいだけで、労働で作るのではない。最近、日本は35兆円、アメリカは1700兆円分のドルを印刷した。

 つまり、お金とは自然に育つ穀物や野菜のようなもので、労働の対価ではないのだ。人がすべきは自然農法のようなお金のシステムであり、そこで得られた食料やお金を世界中の人々の分け合うことだけである。

 とまあ、夢見ごこちで、いきりたった。

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