ゴールが決まらなければスタートはきれない

 今朝のフジテレビの知りたがりで、最終放射能廃棄物の処分場がないだけでなく、中間貯蔵施設もないため、東北関東の放射性ゴミの行き場がない状態で、復興が少しも進まない状態だと報じていた。

 つまり、

 ゴールが決まらなければスタートは切れない

 のだ。 

 これは、「目的がなければ進んでも迷ってしまう」という意味でもある。

 心の病に陥る魔の入り口である。「生きる目的を失う」のだ。それは「生きる理由がみあたらない」「生き甲斐を失う」「なぜ生きる?」

 それを問い続けると、そこに死の世界しかなくなるのだ。それは単純な推測思考から生まれる。生まれたら必ず死ぬのはどんな生き物でも鉄則だからである。いわば、どんな生き物も死ぬために生きているのは明瞭な事実であるからだ。

 こうした生きる目的を失った場合、それを解決するには「たった一つ」しか道がない。

その問題を捨てることである。難しい問題の多くはその問題自身に解決が隠されている。

 例えば

 もし、あなたが地球だったとしよう。「あなたはどこいくの?」と問うようなものである。それは行き先も、スタートも同じ地球であるから、聴くだけ野暮なことなのだ。 

 命において、生きる目的も、そのスタートも同じところにあるからだ。命は生死を繰り返すから、生きる目的を追い続けると、生死の無限回廊に迷い込むのである。それは鏡の中の鏡を見続けるようなものであり、その終点はない。限りなく近づいてもけしてその目的地には届かない双曲線のようなものである。

 生きる目的のような問題はその問題自身に欠陥があり、問う必要がないものだ。そうした生きたいというような生存欲以外の欲望には時間と同じで、始まりも終わりもある。

 では原発はどうであろう。原発の電気を使う使わないにしても、原発自身の目的は地球に放射能廃棄物を生産し、地球全体に増やし、命あるものすべてを抹殺することである。地球全体を死の灰で覆うようなものである。そこに始まりも終わりもあるのだ。

 そのため、原発の問題を解決するには「たった一つ」しか道がない。

いますぐにすべての原発の稼働をやめ、今まで生産された放射能廃棄物を安全に保管、管理するしか道がない。

 つまり、原発そのものが人類自滅兵器だからだ。もし、稼働したら、それはその地域住民をすべて未来永劫にわたって抹殺しようとする狂気な行為である。

 今の技術では放射能を無害にすることはできない。それ故に安全に保管することが、原発廃止と同時に必要になる。それが今回の東北関東大震災被害からの復興の第一歩になる。それが決まらなければ、どんな復興の一歩も踏み出せない。以前の阪神大震災とはまったく違い、原発事故処置が人類の最優先課題になったからである。

 大量の放射能廃棄物を日本国内に最終保管するとしたら、現実的に福島しかない。しかし、福島を最終処分場にしたとしても、将来の安全が保証できるものではない。地下水から海に流れ落ちる危険性があるからだ。

 そのため、日本国内は一時的保管を福島にし、国外の安全な最終処分場を世界人類の問題として、探すことがすぐに必要になる。地下水が入り込まないように、フィンランドのオンンカロの地下500mに10万年埋めて封じ込めるような建設を大がかりにするのが先決である。

 その場所は国際問題になるので、国連が主導するしか決められないかもしれないが、とにかく、人類全体の存続問題なので、人がほとんど住んでいない土地で、他の影響が少ないところをすぐに決めることを人類の最優先課題にすることである。

 それはエネルギーの問題ではなく、人類存続の問題だからである。この世界のオンカロを決めて、すぐに東北関東の放射能廃棄物をそこに運び込むことが、福島の人たちを安心させることにもなる。そうでないと、震災復興の一歩も前に進めないで、福島は震災津波原発の責め苦だけでなく、放射能廃棄物で未来永劫に攻められることになるからだ。

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