やればできる。しかし、できてもやってはいけないことがある。
科学はすばらしい。とてもできないだろうことを次々と実現している。でも、科学を規制する倫理の発展がともなわないで、欲望列車が暴走している。
地球上のあらゆる生物を死滅させることができる核や原発、そして世界中の人間を半数をも死滅させる空気感染するトリインフルエンザなどを製造した。
こうした科学の暴走を止める倫理がなく、逆に科学の暴走をうながす法律が世界中でまかり通っている。
科学の暴走を止める倫理も法も至極単純なものである。人類が生き続けられるなら善であり、人類が死滅するなら悪である。この白か黒かの二者択一しかなく、どっちつかずの灰色のような、生きて死ぬとか、死んで生きるというような矛盾などはなく明解なものである。
人類といっても、それ自体が現実に存在するのではなく、個人だけが存在し、人類とは個人の集まりの総称である。人類の生死の実は個人の生死である。生死があるのは個人の肉体であって魂や心ではない。
つまり、倫理とは「生きるべきか、死ぬべきか、それが問題」ということである。個人は存在するが、その集まりを総称する国のような社会や人類という総称生物は実際には存在しない。そのため、倫理とは個人の肉体の生死の問題であり、個人を生かすものは善であり、個人を死なすものは悪である。
こんなブラックユーモアがある。
「一人の殺害は犯罪者を生み、百万の殺害は英雄を生む。数が殺人を神聖化する・・・チャップリン 殺人狂時代」
個人の数の問題は数が2つ以上ある限り、二者択一はできない。善悪のような二者択一しかない倫理は生か死の二者択一問題にしか通用しないともいえる。
ちなみに、このブラックユーモアは個人の死を数で比較するから、その矛盾がでるのだが、これを個人の生を数で比較すると、常識になる。
「一人助ければ善人を生み、百万人助ければ英雄を生む。助ける人の数が神聖化する」
さらに、これを個人の死を数で比較した倫理(常識)ではこうなる。
「一人の殺害も、百万の殺害も同じ犯罪であり、悪である。悪や犯罪に、数は関係ない」
そして、科学における倫理とはこうなる。
「人を殺す目的で造るどんな製品も、また、人を死に至らしめるどんな製品をも、たとえ造ることができても、けしてそれを造ってはならない」
「人を殺すような銃はどんな理由があっても、使っても、造ってもいけない」というモットーが今後常識になれる社会こそ、倫理科学社会だと言えるだろう。