先日、分かち合いのe中銀券が、納税の自由があるとして、自分で分かち合い率や参加を決めるということを発想したが、これだと、個々人が新マネーを発行し、回収、配分することになるので、個人の意志が入り込んでしまい、自分の心の中での葛藤を常にしなくてはならなくなる。
これでは自由ではなく、心の不自由である。貨幣そのものは法により規制があって初めて信用し、モノの価値を決められる。そのため、貨幣の発行と回収と配分においては自由があってはならない。
それは、人の自由とは何かである。貨幣は地球の働きをそのまま映し出したものである。雨はどんな人にも等しく降り注ぐようなものである、自然の産物の減価率も人間が決めるものでもないし、米や麦が人間の意志だけで、作られるものではないのだ。稲も麦も、他の雑草や生物と同じく、自分で生きようとしているだけである。
人間は天地の神様ではないのだ。
人は貨幣を発明してから、個人主義になってきた。そして、その貨幣を取り合い、争い、そして、勝者と敗者ができ、経済格差が大きくなって、社会は限界を迎え、没落する。
自由とは個人主義のことである。自由と自由を合わされば、分かち合い社会が産まれ、損得や争いがなくなったときである。
地球自然の流れに任せることが社会の自由であり、それに逆らうのが個人主義的自由である。環境破壊や争いは個人主義的自由であり、自然環境保護や平和は社会的自由であり、法(社会のルール・・自然に合わせた)の元における自由である。
そのため、先日の中銀券でも分かち合いができるというのは無理であり、個人主義的自由になってしまうので、法的通貨としてe中銀券は発行しないと、社会的自由は確保できない。
そのため、中銀券による分かち合い電算機はe中銀券の発行運動にして、国の発行をうながすようにする目的でのこじんまりした数人でやるといいだろう。そうなれば、手作業で、分かち合いができる。
さらに、e中銀券を法的貨幣にするには、どうしても、法律制定をうながすような運動をする必要がでてくる。そのため、政治と新貨幣は切り離せないので、新しい政治の形を模索することになるだろう。