時は金なり、金も時なり

 私にとって、「時は金なり」の言葉は石川五右衛門のドラマで、彼が金持ちの家から千両箱を盗み出し、それを手下に貧乏人の家にばらまかせて、自分は屋根の上から、笑いながら叫ぶ。

 「ウッハハ、これは絶景かな、時は金なり! 春の宵は一刻値千金(あたいせんきん)とは まことにちいせえ、ちいせえこと。この俺には一刻値万両(あたいまんりょう)じゃあ。ウッハハ!ウッハハ!」

 という光景がすぐ浮かびます。

 諺としての「時は金なり」はギリシャの「Time is precious」からフランクリンの「Time is money」からの直訳からきたようですが、お金のシステムからすれば石川五右衛門のやったことの方がしっくりときます。

 金持ちのほとんどは「金で金を稼ぐ」いわば「金を貸してその利息で儲ける」方法で成金になれたものです。株や外為も一種の貸金であり、それが「借用証書の売買」に発展したものにすぎません。

 逆に貧乏人というのは「金で使われる人」のことで、「金を借りて、高い利息を払い続ける奴隷」のことだといえます。

 この金をプラスの利息で貸すことでお金が廻るシステムは、古今東西、経済格差が天と地の差くらいに大きくなって、最終的に没落してしまいます。

 その経済格差を是正することなしに、経済生活は発展維持できません。そこで、石川五右衛門がやったように、金持ちから貧乏人にお金を無償であげる是正システムが必要になります。

 というのは、お金をプラスの利息で貸し出すシステムはお金を無限に印刷して金持ちに与え続けるという無理があるからです。それを是正するためには、反対のお金をマイナスの利息で貸し出すことも、同時にしないと、社会経済はバランスを失うことになるからです。

 このお金をマイナスの利息で貸し出すということは、まさに石川五右衛門がした、「金持ちの金を貧乏人に元金とマイナスの利息分だけずっと与え続ける」ことに他なりません。

 これは世の中にお金を貸す1人Aさんと借りる1人Bさんがいたと想定したら、それはすぐに理解できます。

 例えばAさんが、1万円を1日10%1000円のプラスの利息として、Bさんに貸したら、Bさんは借りた1万円の中から、毎日1000円の利息分をAさんに渡しますが、10日後は0円になり、Bさんは破産します。

 次に、Aさんが、1万円を1日10%1000円のマイナスの利息として、Bさんに貸したら、Aさんは毎日1000円の利息分をBさんに渡しますが。10日後には0円になり、Aさんは破産します

 そこで、AさんはBさんに、1万円を1日10%1000円のプラスの利息とマイナスの利息で貸したとします。

 すると、Aさんは1万円、Bさんは1万円元金として持ち、毎日1000円がAさんとBさんの行き来することになり、経済格差もなくなり、かつ、経済は廻ることになります。

 つまり、中銀券はプラスの利息システムであり、e中銀券はマイナスの利息(貯蓄税)システムになります。 
 
 最近、バリ島に家族で遊びに行きました。そのとき、日本のVISAカードが使えたのですが、その利息は年3%でした。JTBだと4%でしたので、ほとんど普及していませんでした。

 そこで、e中銀券の貯蓄税はいくらにしたらいいかが閃きました。それはVISAと同じ年3%の貯蓄税です。これは貨幣の減価率であり、貨幣の循環率にも相当します。年3%を逆算すると、100/3=33.3年あり、住宅ローンの最高年が35年に近い数字になります。

 VISAという会社がそれで経営が成り立つとしたら、国の経営も年3%でも維持できそうです。親子の世代交代も33年は適当かもしれません。

 それに、年3%だと、消費税や所得税よりも少ない金額なので、無謀な税額ではありません。しかも、貯蓄税3%で、消費税・所得税・法人税(流動資産税)は納税する必要がなくなるだけでなく、もっと安く、しかも申告も脱税もする必要もなく、徴集経費が大幅に削減できます。

 バリ島のツアー代金をVISAで旅行会社の社員に払おうとしたら、機械がないので日本円でお願いしますと言われ、困っていたら、娘がさっと足りない2万円を貸してくれた。

 日本に帰って、娘からその2万円を返してくれと言われたのだが、何か変なので笑ってしまった。

 学生の娘が持っているお金はすべて私があげたもので、娘のお金ではない。あげたお金を、もらった人が返してくれというシステムはまさに、中銀システムならではの言い分である。

 考えてみれば、世の中のすべてのお金はけして自分のものではないし、自分のものだとは言えないだろう。それは自分の身体は元々、自分を生み出した父母や天地のものであるといえるからだ。言えるとしたら、自分の身体もお金も、父母や社会や天地から借りたものでいずれ返さなくてはならないものであろう。

 ただ、お金はその器は金属・紙・電子であったりするが、その価値は時である。時とは無限に続くように感じるが、宇宙が無限ではなく、膨張する存在のように、限界はある。

 なぜ時が無限に続くように感じるのだろうか?

 無限に続くような感覚は「その繰り返し」にある。生成と消滅、生と死の繰り返しが時を感じさせていることになる。時を刻む時計もカレンダーも、地球の公転と自転、月の公転から成り立っているように。

 時は金なり
 金も時なり
 富める者はいずれ貧しき者に
 貧しき者はいずれ富める者に

 そうした繰り返しを楽しむのが経済生活なのだろう。喜怒哀楽が人の心の財産のように。

 

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