ここ5日間、東京の店の抜けた床の取り替えをした。その工事がかなりのハードだったため、山梨の自宅にもどり、二日たっても疲れがとれないでいる。
田舎では麦の白い花が咲き、雑草のように家の周りを覆い尽くしている。そのまっすぐに立った麦穂の姿を観ているときが、一番うれしくなる。
店を改装した際、軽トラ一杯の廃材がでたため、山梨の畑にもってきた。廃材は産業廃棄物なので、粗大ゴミとして捨てることはできない。そこで、この大量の廃材を処分する方法を考えた。
今は全国的に野焼きは禁止されているので、別な処分方法を考えた。この廃材は土中の水分で腐ったものであるから、それと同じようにして、腐らせれば、肥料としてリサイクルできるのではないだろうか?
板橋のアパートのコンクッリート基礎の上の10㎝角の柱が外から流れ込む雨水で腐って、消えてしまった事実を再現できれば、それが可能である。ちょうど、その腐らせた土を山梨に持ってきたので、その腐敗菌がある土を店の廃材に振りかければ実現できるかもしれない。
そこで、こぼれ麦種で成長した麦を刈り取り、そこにスコップの一回分の穴を掘り、そこに廃材をばらまき、水をかけ、そこに腐敗菌の土を振りかける。ちょうど、キムチの漬け物を作るように、廃材・水・土を繰り返した。そして、最後に、乾燥しないように、床に敷いてあった汚れたクッションフロアシートをかけた。
木が腐って消えるようにするには、肥料作りと同じみたいで、空気を適度に入れて、腐敗菌や虫が活動できるようにすることが必要だろう。
一日たって、シートを開けたら、たくさんの団子虫がいた。できたら、シロアリがいたら、あっというまに、廃材を食べてくれるのになあ・・・と思ったが、団子虫も、木材を食べてくれればしてやったりではあるが・・・どうなんだろう?
こうした廃材処理は砕いて、細かいチップにすれば、藁のようにいい肥料や保湿剤になる。また、砕かずに炭焼きをして、炭にすれば、燃料にも、また、保湿剤、水浄化剤としても利用できる。
だが、廃材のような産業廃棄物を炭や肥料やまた古材として再利用するような社会構造にはなっていない。コンクリートの瓦礫だって、それを細かく砕けば、砂利として再利用できる。
産業廃棄物は非常に高価の値段で引き取られる。1キロ当たり30円、または1立方メートル数千円から数万円もする。
石膏ボードを一枚買うと約300円であるが、(運搬代を入れずに)それを捨てると1立方メートル1万円もする。 木材でも、10㎝角の4m買うと約2千円するが、それを捨てると、1立方メートル5千円もする。
家を作る材料費と家を壊して捨てる処分量は、はたしてどっちが安くなるのだろうか?
ひょっとしたら、今のお金の損得システムと同じく、生産費用と廃棄費用は同額ではないだろうか?
つまり、株やFXで、誰かが1億円得をしたなら、誰かが1億円損をする。それはスポーツやゲームの勝敗と同じで、勝つ人の数だけ、負ける人の数がいるということである。日米の野球試合があって、日本が5点、米が0点だとすれば、日本が5点勝ったら、必ず相手の米は同額の5点負けるのである。
こうした勝負の原理は、お金の損得と同じように、生産と廃棄にも通じることではないだろうか!
今問題となっている。原発と火力発電を比べてみると。それは石膏ボードと木材のようなものである。
原発で電気を作る費用は石膏ボードみたく安価だが、その原発を廃棄し、その放射性廃棄物処分費は高額になる。
一方、火力発電で電気を作る費用は高額だが、その廃棄処分費は安価である。
そこで、生産する場合に必要な判断は生産費用だけでなく、その廃棄費用を組み込むことが必須条件になる。
原発や放射性廃棄物の処分は高額だけでなく、今の技術では不可能であるから、電気を生産するためには、原発より火力発電の方がはるかに経済的である。火力発電だって、石油よりも、廃材や廃プラを使ったゴミ発電の方がはるかに経済的であるといえる。
生産と破壊廃棄する費用だけでなく、その生産労働と破壊廃棄労働を比較してみる。店を改装するよりも、壊して処分する方が大変だったように思えるのだ。
それはあたかも結婚するより、離婚する方がはるかに大変だというようなものだ。スポーツにおける買ったチームの運動量と、負けたチームの運動量はそう変わらないが、精神的に、買ったチームは楽で、負けたチームは苦しいというだけではないだろうか。そのスポーツの勝敗運動と精神のように、生産と破壊廃棄も同じように言えるのではないだろうか?
生産と廃棄はいわば命の生死を表している。
私が少年のころ、悩ませた倫理的問題があった。
「登山する友人と私は一本のロープで結ばれている。下にいる友人が足をすべらせた。私は友人を支えるロープを切れば助かるが、友人は死ぬという状態になった。私と友人はいったどういう判断をすれば正しいのだろうか?」
私達が食べるという行為は、他の生命を奪って、自分の命を支えることである。魚や肉を食べる行為は魚や豚の命を奪い、人間である自分の命を繋ぐ行為である。穀物である米だって、それは新たな稲の命を産み出す種であり、それをたくさん奪って、人間や鳥の命をつないでいる。
つまり、生死は勝負と同じであり、誰かが死ねば誰かが生きる。すべてが死ぬこともすべてが生きることもない。生命は生と死のコインの裏表があるようなもので、生だけ、死だけの片方だけがあるということはないのだ。
これは生の代名詞である神様、死の代名詞である悪魔にもいえる。神様と悪魔は一体なのである。そう思えば、こんな疑問を持つことはないだろう。
「天地創造の神様、どうしてあなたはこの世に悪魔をも創造したのですか?」
こうした生死の相対性は、人が使う相反する言葉の意味に多く通用している。
人生苦もあり、楽もある ♪ という歌のようなものである。
最近、この相対性は「個人と社会」にも通用していることを発見した。政府が原発依存か、脱原発かで揺れている。それを決定するのは誰であろうか? 議会民主主義においては、多数決であるから、社会とは多数の個人の意見であるといえる。
こうした多数決であっても、その基本は個人の決断と意見からなっているので、政府の判断は個人の判断であるといえる。それは北朝鮮のような独裁政権でも同じで、独裁者という個人の判断が社会の姿になる。
社会は個人の集合体であるから、社会自体が存在するのではなく、個人だけが存在する。つまり、個人がなければ社会は存在しない。また、社会がなければ個人も存在しないので、個人と社会は生死のコインの裏表であるといえるだろう。
よく社会を変えるというが、それは個人を変えないとできないという意味になり、つまり、それは自分を変えないとできないということである。
そのため、いかに自分の意識が社会にとって最も価値にあることであると言えるのである。
自分の意識は確かに70億分の1かもしれないが、その70億分の1がたくさん集まったのが社会であるから、自分の意識が社会を支えていることは確実なことなのだ。
つまり、私のような脱原発の意見を持つ人が多くなれば、必ず社会は脱原発するようになるということである。議会民主主義でない独裁政権ならば、その独裁者が脱原発の意見を持ったら、そういう社会になるのである。
私達の意志の一つ一つが社会を築いていることは確かな事実なのである。