生きていくということ

 店の床改築が終わり、

 板橋のアパートの改築は亡くなったお婆さんの荷物を息子さんに引き取ってもらえるまで中止した。一人暮らしであっても、たくさんの荷物があったためだ。
 何かのドラマで、動物と人間の生き方の比較がされていた。

「動物にとって、命をどう繋ぐかどうかが生きることなんだ」

 この言葉は動物だけでなく、植物にも、生きとし生けるものに通用する。生死の循環を言い換えると、命の繋ぎとか、命のバトンにもなる。

 親から子へ 自分から他人へ 個人から社会へ そうしたバトンにも派生する。

 自殺する人たちにとって、「ただ生きているだけで幸せ」とは感じられない。このただ生きているだけという意味は「自分がただ生きているだけ」ということであって、そこに他人は存在しない。

 「人は夢や希望なくして生きられない」

 この夢や希望とははたして自分だけのものであろうか? この欲望には必ず他人の存在が隠されている。たくさん金儲けしたいという夢があったら、それは他人よりももっと多く金持ちになりたいという意味で、他人との比較からうまれた希望である。

 そもそも世界一を目指す夢とは世界中の他人より上を目指すことである。また、世界で唯一ということも、他人と全く同じではないということで、やはり他人の存在なくしてうまれない夢や希望なのである。

 つまり、人が生きていくということは、自分と他人の命の繋ぎをつけることである。この命の繋ぎとは何かといえば、「もし親子の繋ぎから愛を抜き取ってしまえば、あかの他人同士になる」ので、命の繋ぎとは愛という心になる。

 親子が血縁という命の繋ぎであるとするなら、血縁を両親から双方の両親というように、2の累乗数の血縁が数百年で数十億にもなって、人類すべてが血縁でつながっていることになるので、血縁は命の繋ぎというより、他の動物と区別できる人類種という一つの種である。

 そのため、命の繋ぎとは血縁というより愛情である。愛とは血縁のような人類一つになるラインとは反対に、全人類70億人の中から一人の人を選ぶことであるから、人類は70億それぞれの個性を認める人格のことである。

 いわば愛と自我は命の運ぶ車の両輪ということになる。愛とは他人なくして産まれない自分の心であるから、「選ばれた自他」ともいえる。

 家を建築することと、畑で穀物を育てることはそっくりである。また、お金を儲けることとも似ている。

 これらの類似性をもたせるのは生死の循環であり、命のバトンである。個人の寿命は約80年のように、家は木造で約30年、畑は約1年、お金の中央銀行システムは約100年であろう。

 こうしたモノの寿命は一度新築したら、自動的に活動し、ほとんど手をかけずに寿命期間存続できる。そして、寿命という命を繋いでいくと、永続できる。

 この命を繋ぐバトンはその家を愛するか、畑の作物を選択するか、お金の循環をどういう形にするかで、手渡され、永続が可能になる。

 日本国が永続になるかは、電気を原発依存するか、自然エネルギー依存するかで、決まってしまうように、いかに人は愛するかで、命のバトンがとぎれなく続くのである。

 板橋のアパートも、耐震できる基礎と排水と湿気対策した改築すれば、もう30年間は存続できる。畑も、毎年、雑草ではなく、穀物や野菜を選択し愛すればもう1年間は存続できる。中央銀行システムは、その基礎をプラスの金利だけでなく、マイナスの金利(減価)との併用をすれば、もう100年間は存続できる。

 親も子とその孫を愛すれば、もう80年間は人間存続できる。

 つまり、命のバトンをより確実にできるように、建築、畑、お金を作り、修繕し、生死として、創造と破壊を循環させることが生きていくということであろう。

 

カテゴリー: 徒然草, 自然に生きる パーマリンク