もし食料がわずかだったら、人間はその食料を奪い合うだろう。
もし食料が適度にあったら、人間はその食料を分け合うだろう。
もし食料が有り余るほどあったら、人間は食料を別な目的のために奪い合うだろう。
東京のアパートの住民だった家財荷物を整理が終わり、やっとリフォームすることができる状態になった。それまで、畑仕事で、麦の後の稲作に苦労していた。雑草と稲との交替を夢みていたが、稲は水田の方が、その特性を発揮しやすく、栽培には適しているようだ。畑作には陸稲の種でないと、成育が進まない。
陸稲はとにかく雑草に負けないようにしないと成育ができない。稲が苗の状態だと、雑草との区分けが難しく、しかも、雑草の種のが圧倒的に多く、しかも成育が稲の数倍も早い。そのため、麦の後の種まきでは遅すぎたため、雑草負けになり、失敗した。
結局、雑草負けしない大豆栽培に変更し。大豆の周りは雑草が生い茂る状態になり、雑草に下にわずかの10㎝ほど苗が生き残っている。
雑草を採ることを毎日やっていたが、とても追いつかない。そして、ふと「どうして雑草を採るのだろうか?」と問うてみた。
「稲の苗を生かすため」とすぐに答えた。「では、このまま雑草を採り続けていけば、稲は育つのか?」と問われると、「雑草の種類も、量も半端な量ではなく、大豆の成育を守るのが精一杯だ」 「だったら、稲作をあきらめて、今しなければならないリフォームでもしろよ」と言い換えされてしまう。
雑草を採るというのは、雑草を殺すということである。これは虫を殺すことと同じで、畑で刺される蚊やブヨを殺し続けても、けして全部の蚊やブヨを殺すことはできない。殺しても殺しても蚊やブヨはどんどん発生してくるように、雑草をいくら採っても採っても生えてくるものである。
そのため、蚊やブヨを殺さずに、刺されないように網の帽子と服を付ければいいだけである。また、蚊が多く発生しないように、水たまりをなくすようにしてしまえばいい。
虫を殺すのではなく、虫が生まれるのを止めればいい。雑草も同じで、雑草の種がまかれないようにすれば、雑草は生えてこない。
人は最終手段として、戦争のように「殺す」決断をするが、それはヒットラーのようにユダヤ人を抹殺しようとしても、無理であり、逆に復讐されて、自分が殺されてしまうだろう。
殺すのではなく、発生を抑えることが、目的にかなう。
発生を抑えるようなことは、予防であり、生まれるまえに、物事を処理することである。食料生産もまた、人が必要とするだけの生産だけをすれば悲惨な殺し合いは避けられるのである。