「愛が世界に満ちている」とはいうが、それは自分が恋しているときに、世界が愛に満ちあふれているように感じることだ。
しかし、「智恵が世界に満ちあふれている」と観じられた時は、どんな事象をみても、それが自然の営みであり、それがすべての解決策を表していると知った時である。
智恵とは何か苦しみぬいて、その中から生まれてきたような・・・そう泥沼の中から咲く蓮の花のようなものに思われているが、その蓮の花が咲くだけの事象ではなく、どんな事象にも智恵が表されているということだ。
それは智恵とは産み出されるものではなく、そこに存在するものだということである。欲望を押さえるのは智恵であるといわれるが、欲望を促すのも智恵である。生きとし生けるものの欲望はまさに自然の営みであって、その欲望の発生と後退もまた自然の営みであり、その自然の営みそのものが智恵だといえるものなのである。
また、悟りといって、まるで最高の智恵のようなことをいうが、智恵に最高も最上もあるというのがそもそもおかしなことである。人間が月に行くことができる技術というのはそもそも慣性や重力の法則を元にしたもので、そうした法則は自然の営みの一つにすぎないのだから、自然の営みを知っただけで、その自然の営みの通りに動いたら、そうできたにすぎない。
智恵が人間の産物ではないのだ。ただ人は自然を観察しただけにすぎないのである。智恵が何かといえば、それは自然そのものであり、自然が何かといえば何もかも自然である。
つまり、自然なるものはすべて智恵である。だから、智恵は世界に満ちていると観じるのだが、むしろ、自然と智恵が同じならば、智恵が世界そのもの、自然そのものであると言っていいのである。
知欲といって、智恵は求められるもののように思われているが、それは幸福の青い鳥を求めるようなもので、知を求めると、知はすでにそこにあるということだ。知は先にも以前にもそこにあるのだ。
最近、エジプト人という映画をBSで観たが、キリスト以前の1500年前にも、民族や貴賓の差なく、人は平等であるという思想家もいたという。こうした人は平等であるという智恵は最近に生まれたものではなく、3500年前の人間にもあったともいえる。
人が平等というのは、人以外の生物の視点から人間を観察すれば明らかな智恵であるから、平等の智恵は人類が誕生し、死滅する時にも、またそれ以前にもそれ以降にも存在する智恵である。
また、その逆の智恵もあるが、それはこういうことだろう。一つ一つの事象がそのまま智恵であるということであろう。
では馬鹿って何だろう? それはたぶん、「わかっちゃいるけど、やめられない」ってことだろう。とはいえ、その馬鹿につける薬も智恵である。馬鹿を観察する眼も智恵である。いわば、馬鹿とは智恵の演技のようなものにすぎないってことだ。