魂って何だ

 友人と魂論議して寝ることも忘れるほどだった。人の意見は人の数だけあると思える。もし、こうした論議しないと、まさに孤独もしくは妄想に陥ることになる。金子みすずが、「みんな違ってみんないい」と言ったように、人の意見もまたこう言えるのだ。

「みんな意見が違って、みんなの見方があり、みんな合わせてより大きな視野が生まれ、より真実に迫ることができていい」

 それらの意見をまとめるには、参加者の多数決になるが、その多数の意見が真実であるとは限らない。

 また、個々の意見だって、論議また時間がたつうちに、変わることだってあるので、多数決も変わってくることもあるのだ。

 こうした多数の意見ではない、魂について、自分の意見を言いたくなった。 

死後の世界とかいって、臨死体験や伝承から、人の魂は不死であることが信じられている。今かた3300年前のツタンカーメンの時代でさえ、人の魂は不死であるとして、ミイラにされていた。

 だが、ツタンカーメンの魂を検証することはいまだにできていない。神様と言われるキリストや仏と言われる釈迦の魂さえも、未だに検証できていない。まして、その時代に生きていた無名で無数の人たちの魂の存在だの検証されるどころか、その名前さえも記憶されていない。

 つまり、魂は永遠不滅だと信じられているが、それを検証されていないため、事実だとは言い切れないのだ。

 そのため、それが事実だと検証されれば誰でもが信じることができるが、検証されない場合は信じる人と信じない人が生まれることになる。そして、それが検証されない間は魂は永遠なのか、そうでないのかは不明であるということしかできない。

 しかし、逆に、魂が不滅ではないと検証されれば、それは事実として誰でもが受け入れることができることになる。その検証は、ツタンカーメンの時代に生きていた人たち一人一人の魂の存在を確かめるかどうかを調べればいいので簡単にできる。

 その検証結果、魂は不滅ではないと証明することができ。誰しもが素直に信じることができるものである。

 だが、魂が不滅であると信じる人にとって、そうした検証は不服であり、魂とは何かと議論に発展することになる。

 その場合の論点は魂は肉体ではない、精神体であり、それは目で確認できるものではないから、魂は検証できないというだろう。

 魂は不滅ではないという検証の一つは、肉体の一部である骨とかではなく、その人の名前である。ツタンカーメンという名前は今も知ることができるが、その他大勢の人たちの名前すべてを知ることはできない。

 個人としての肉体も、その魂もまた、他の人間と識別できる、その人の名前が付けられることが最低条件だからである。

 こうして名前のある魂の存在を論議していくと、魂とは歴史上の著名人の名前や記載された文献上の名前であるということになるだろう。

 そのため、人は「死んで名を残す」とも言われる。その名が魂を形造るものになる。

 魂はその名前の記憶により形成されるので、魂は平等ではなく高低ができる。高低に合わせて、最も高い魂は神霊となり、最も低い魂は悪量になる。魂の高低に合わせて、いろいろな言葉があてられ、ハイヤーセルフとか、幽霊とかいろいろな名称が付けられている。

 魂の存在や姿を空想する場合、元になるものが肉体である。魂は肉体ではないといいながら、肉体を元にして、推測されるものである。というのは、肉体から魂が生まれるものだからである。輪廻転生においては、肉体と魂はニワトリとその卵にようにどっちが先でどっちが後か解らないが、そのDNAからの研究からニワトリが先で卵が後であることが判明したように、歴史的にみても、肉体が先で、魂が後に生まれると判断できるものである。

 では、輪廻転生のような思想、一種の知覚がどうして生まれるのだろうか?

 「存在しないものは空想すらできない」
 という概念がある。これは「我思う故に我あり」ということもそうだが、思ったものは必ず存在するという思想である。この思想は「夢は必ず叶う」というような発展にもつながってくるが、残念ながら、かなわない夢もたくさんあるのである。

 それは「存在しないものも空想できる」ということだからだ。これは幻想と言われ、「存在しないものを存在すると思いこむこと」また、「存在することを存在しないと思いこむこと」である。
 
 こうした思いこみは自分が経験した世界で新しい世界を観た場合にうまれる。それは人間が神や宇宙人を想像したら、それはほとんど人間に似てくるように、カエルがもし神様を想像したら、きっとカエルのような姿になると思える。

 しかし、新しい発見はどのようなプロセスでなされるものだろうか?

 これはいくつかの事実から推論して、空想された事実が予測できた場合である。そうした事実を元にした推論はいずれ検証されることも多い。

 魂のようなはっきりとした形をなさないものは、「個人の欲望」を元にした思いこむが多く、未だ発見されていない存在は「自然的事実」を元にして想像されたものであるといえる。

 そこで、永遠に生きたいという欲望から魂の存在を信じるよりも、ある自然的事象から魂の存在を想像してみるとこうなる。

 自然的事象である、トマトの姿を肉体、トマトの種を魂という仮定から想像してみよう。

トマトという肉体は朽ち果てるとたくさんの種だけが残り、その種の中のいくつかだけが次のトマトという肉体を持つことができると推論できる。

 たくさんの種のうち、再び肉体を持てたトマトは強い種であり、また強運な種であり、それはまさに、有名人だけの名前が残る歴史ように、偉大なトマトの魂だけが存続できるではないか。
 
 このトマトとその種をさらに人間に推測すると、その土地で種が生き続けるためには品種が変わることがあるように、魂もその時代に合わせて変わっていくことで命のバトンがされていくと想像できる。

 個人は家族で伝承された老舗の店や、社会的目的で集まった法人で受け継がれる会社があるように、老舗の店や法人のモットーで、長く存在続ける集団を魂の姿といえるのではないだろうか。

 その一つのトマトの姿も、そのトマトを造った元の種も消えるが、そこで造られた種はその強さと運で、生き残り続けることができるように、一つ一つの肉体は消えるが、その肉体が残した種(人生、生き方、業績など)は魂のバトンとして受け継がれ、時代に合わせていくことで、生き続けることができる。

 魂が永遠に不滅になるかどうかは、今の人間の努力にかかっているといえるだろう。

 つまり、魂とは永遠不滅なのではなく、その魂のバトンを受けた人たちがその魂が永遠不滅であるように努力し、生き、その魂のバトンを未来の人に渡していくというものであり、時代とともに修正創造されるものだと思うのである。

 

 

カテゴリー: 徒然草, 自然に生きる パーマリンク