命のバトンとは魂のバトン

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 命のバトンを肉体だけ考えるならば、それは先祖代々続き、それを子孫末代まで、遺伝素子DNAを伝えることであるが、そのバトン経路を追いかけると、二人の両親、そのさらに両親というように、2の累乗計算になり、あっという間に今の世界人口70億人の先祖ができてしまう。

 また、生む子どもが平均2人として、その血縁が続くとしたら、やはりあっという間に70億人の子孫が生まれることになる。

 こうした計算からいうと、今の世界人口70億人は共通の両親から生まれてきたと断言できてしまうだろう。

 しかし、日本民族の両親はイザナギノミコトとイザナミノミコトであるが、ユダヤ人の両親はアダムとイブであるが、その両親が同一人物であったようには思えないのはなぜであろうか?

 こうした2の累乗で肉体の命のバトンが計算されるためには、確実に自分の子どもが生まれるという前提が必要である。現実はどんな人間も確実に自分の子を持つことができるとは限らない。

 子のない家庭も、結婚しない人も、若くして亡くなる人だって、たくさんいるからだ。

 そのため、DNAや血縁で命のバトンを繋ぐルートは永遠不滅になれないと思える。こういた血縁による命のバトンは植物や魚類のように、種や卵をたくさん産むような肉体が必要であろう。さらに、男女というのではなく、自分で自己分裂して子孫を増やすことで、命のバトンをした方がより確実である。

 人間は命のバトンを他の生物とは違って、生む子どもの数も少なくし、かつ、血縁の子だけにそのバトンを渡すようにはしていない。血縁によらない命のバトンのことを魂のバトンということができる。

 血縁に寄らない魂のバトンは、主に知と愛によって伝達される。技術や知識のバトンは教育から行われ、人が愛する時は血縁を避けて、まったくの他人を愛する機能が働くからだ。

 命というのは個々の肉体をイメージさせる言葉であるが、魂というのは個々の肉体ではない、個々の心をイメージさせる言葉である。

 我々の心は肉体にようにははっきりとは見えないし、その形もはっきりはしないし、肉体のように常に一つではなく、2つ以上になって迷ったり、生まれは消えたりもして、常に定まることはない。

 心を形成させるのは意識であり、意識には意識する相手である対象と意識する自分の肉体の存在が必要である。 我々の五感や知覚は意識する機関であり、心を形成するものである。

 心の代表は愛であるが、愛は相手がなければ生まれない心であることからもわかる。

人の死後、その人の心は何かに残ることが多く、その人が残した文書や持ち物から、残された家族や友人が知ることができる。

 人が死んでも、その心は長く残り、伝えられるため、その心を魂であると言える。それは人型の幽霊のような幻影体ではなく、生前、その人が何をしたかったのか、何を求めていたのか、その内容のことをその人の魂であるといえる。

 例えば、「近江のおいしい和菓子を造る」という欲求は老舗の店の魂として続き、伝承者が血縁でなくとも、同じ意志を持った人が誰でも引き継ぐこともできるものである。
  
  このように、具体的な意志を持った人の心が魂であり、その具体的意志は誰でもが引き継ぎまた、バトンを渡せる意志であるのが、魂の特徴であるといえるだろう。

 こうした魂のバトンはちょうどオリンピックの聖火リレーのように受け継がれ、その火はけして消えることがないようにする。オリンピックの精神はオリンピックの魂であるといえ、炎は魂、炎を燃やす松明は人間(肉体)である。松明である人の肉体は燃え尽きるが、その炎は他の松明に燃え移り、消え去ることはなく、その炎のバトンが魂のバトンである。

 最近、シリアの内乱をレポートしていた日本人の女性記者が政府軍に殺された。その女性記者の魂はきっと、平和的な国の革命の姿ではなかったのではないだろうか。日本は無血革命ができた国である。隣国との領土問題でも、けして武力による実行支配で解決しようとはしない国である。

 こうした武力なしで、国の問題を解決するという平和精神も平和魂といえる。

 魂のバトンは国会議事堂前でも毎日行われている。「脱原発の魂」のバトンである。そのデモは毎日バトンされ、時には大きく数十万人ものデモとなって、燃えている。

 これは世界中から一つの原発も無くなるように運動され、それが実現した後も、未来の子ども達の命を守るエネルギーの創造する魂へと替わり、永続されていく魂のバトンの姿である。

 

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