信じるということ

 瞑想して、自分と世界だけになるときがある。その時、こう自問する。

 この現実が真実なのか?
 それとも、この幻想が真実なのか?

 これは、現実が真実だと信じ込んでいることへの疑問であり、むしろ、幻想の方が真実ではないのかという発見である。

 愛する人が亡くなったときに、残された人が語る言葉がある。

 人は死ねばなんにもなくなってしまうんだな!

 いやいや、 あの世で、楽しく暮らしているよ!

前者は現実であり、後者は幻想であるが、はたして、あなたはどちらを信じるだろうか?

 すべて消え去ることは信じたくないし、あの世で楽しく暮らしていることを信じたいと思うのではないだろうか?

 この迷いは、信じることが望みであることを示している。望みとは欲求であり、その元は生きたいという願望である。

 つまり、生きているということは何かを信じていることであり、現実をそのまま受け入れていることではないのだ。

 現実をそのまま受け入れることは自然にまかすことであり、生きても死んでも、そのまま受け入れる心のことである。その心は平和で安らかに導いてくれる。

 しかし、生きていくということは、幻想を持ち、それを信じて生きるということである。死んだら、幻想さえも観ることはできないだろう。幻想を持てば、現実と違うため、現実を幻想に合わせようと闘うことになる。

 そのため、生きるということは闘うことなのである。平和であるというのは、闘いの後の一時の休息にすぎない。

  信じるということは、人偏に言葉と書くので、人の言葉を信じるかどうかの意味である。人の言葉には嘘も本当もあるので、信じることが現実か幻想かがわからないから、そのどちらかを選ぶということになる。

 つまり、信じることが本当なら現実であり、また現実になるということであり、信じることが嘘であるなら、それは現実ではないが、それが現実になりえるということである。

 人がすべて自然にまかすならば、人は何もしないであろう。しかし、人は何もしないでは生きていけない。人は意志しようとしまいと、人は何かしら行ってこそ、生きているということなのである。

 人為的ということは、意志をもって人が行うことである。人の意志が生まれるときは、そこに目的があり、その結果もできるということである。この目的が今の現実にない幻想であるともいえる。というのは、目的は心の中の絵のようなもので、それが現実化するかはわからないからである。幻想である目的が現実化すれば、それは本当であり、現実化しなければ幻想のままであるということなのだ。

 実際に多くあることは、目的に向かって生きてきたが、まったく目的以外の予想外の出来事が起こる。その予想外の出来事は幻想ではなく、現実である。その予想外の出来事は善いことも悪いこともある。

 もし、予想外の良い結果ならば、目的が現実化しない幻想であっても、その幻想を受け入れ、信じたいと思うであろう。

 愛する人が亡くなった時に、もしその人があの世で楽しく暮らしていると信じたら、残された家族全体が明るく楽しく生活できるようになったとしたら、人は死ぬとあの世で楽しくも暮らせると信じて話をするのではないだろうか?

 古来から信じられている宗教もまさにそういうことではないだろうか?
神様や仏様が本当にいるわけではないが、それを信じて行動すると、今まで以上に楽しく生きられる環境ができるからではないだろうか。

 私達は本当ではないドラマや映画を楽しむことができるのは、本当ではないことを本当であるかのように空想し、それを楽しむことができるといっていいだろう。

 信じることは自由であるが、それを信じることで、どんな結果を招くかを注意することが大事であろう。もし、それを信じることで悪い結果を招くなら、それは信じない方が無難であるということだ。また、もし、それを信じることで、良い結果を招くなら、それは信じた方が楽しいということである。

 

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