経済優先から環境優先へ

 耕耘機で、米の畑作用に耕した。あまりに石ころが多いので、耕耘機が壊れる寸前のところまでいった。米は余っているくらいで、しかも、条約で輸入しているので、栽培する必要はないのだが、自給自足を目指す者にとって、毎日の食事のメインが米である以上、それを自分で栽培したいと思うので、挑戦している。

 水田だとうまくいくようだが、畑作で米の栽培は難しいようだ。福岡式自然農が米麦の二毛作だったので、そこから入ったが、麦は成功したものの、米は二度も全滅して、今度は三度目だ。

 伝統的栽培を勉強せずに、まったくゼロから挑戦したいので、三度目は冬に種籾をまいて、どうなるかを試す。

 私の理想は何もしないで、毎年穀物や野菜が収穫できることである。それは山で柿がとれたり、山菜やきのこがとれるようなものである。

 農業と漁業は似ている。魚はたくさん採らなければ、毎年魚は充分捕れる。穀物や野菜だって、魚と同じようにして、来年もそのまま収穫できるくらいに、間引くくらいに少しだけ収穫しておけば、可能ではないかと思うのである。

 毎年何もしなければ、同じような雑草が春夏秋冬で生えては枯れている。しかも、草刈りをしても、やはり生えては枯れる。そんな雑草と穀物野菜とどう違うのだろうか?

 漁業や農業において、人は売ってお金にすることばかり求めているから、苦労多くして、不安定な収穫になってしまうのではないだろうか。

 確かに、お金の発明は経済的に生活を豊かにしてきたが、逆に心を貧しくしてきたのではないだろうか。国の経済戦争は武力闘争にも発展する。そして、何よりも、貧富の差を大きくしてしまう。それは強い者が弱い者を虐げるような社会になってしまう。

 経済がある程度発展したら、環境を重視せざるをえなくなる。そうしないと、全滅してしまうからである。

 今のお金のシステムでは自由市場が基本であり、より多く金持ちになった者がその市場を制することができる。個人でお金は無制限に持てるので、「お金はあればあるほど良い」という考え方が主流になってしまう。

 これは魚や穀物野菜を採れれば採れるだけ採れれば良いということであり、それは来年には持続できない、一時の経済的観念である。

 人間が住みやすく、未来にわたって安心して暮らせるようにするには、食料や資源を常に持続可能な循環にする環境が必要である。そのためには、必要以上の食料も資源もお金も得ようとはしないことが大事になる。

 今の経済はギャンブルと同じになってしまうのは、必要以上のお金を発行するから、生活から離れて、勝ち負けの楽しみだけで、お金を儲けようとする。それが食料や資源は本来の目的ではなく、ギャンブルを楽しむのために、コインになってしまっている。

 経済が損得で動くが、環境は損得は関係なく、命の循環がされている。原発はまったく環境を配慮しないで、経済だけで動いている典型的なものだ。未来の人類の命を捨ててまで、今の電気を享受するのは馬鹿げている。

 数十年前は核戦争で人類は破滅すると言われてきたが、今は原発で人類は破滅するといえるだろう。

 これは経済を最優先すると、人類は破滅し、環境を最優先すると、人類は永存するともいえることだ。

 

 

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