ネットハウスにはあいかわらずスズメが入ってきて逃げられないでオロオロしている。最初は鳥からいろいろな種を食べられないように、毎回不織布で覆い、取り去るのが面倒なので作ったのだが・・・
この現状をみると、ネットハウスで鶏を野放しで飼うことも可能だと思えた。しかし、鶏の卵を採るのに、その餌やりや水あげなど、かなり手間がかかる。もっとも困るのはそのえさである。
鶏一羽でも、それが食べる餌を栽培するのにかなり大変である。麦を食べさせたとしても、人間一人よりも多く食べる感じがする。
牛や豚でも、その餌の量を栽培することを考えると、肉を食べるよりも、その餌を食べる方がより生きるのが楽だと思える。
大体、立派な体格をしている牛や豚や鶏でも、みな草を食べている。肉食獣の方が筋肉ばかりで、貧相にみえる。
人間だって、肉を食べなくても、草食動物のようにりっぱな身体を維持できるように思える。草を食べれば楽なのに、肉を食べようとして苦労しているのはどうも変だ。
肉が食べたければ、ネットハウスにいくらでも自然の鳥が入り込んで捕まえることができる。田畑を荒らす自然鳥獣害を殺して食べて、それで足るを知れば、一石二鳥になる用に思える。
動物を飼育して食べることはあまりにも労苦が多すぎる。野生で生きている動物を捕獲して食べた方が、労苦は少ないだろう。日本にはイノシシや熊や猿、それに狸や狐だっている。ハトやカラスがいるが、それだって食べられるのではないだろうか。
そうした動物をわざわざ狩りにいくのではなく、田畑を荒らす動物に限って捕獲して食べればいい。わざわざ狩りにいったり、養育したりしないで、害する動物(虫を含む)だけを食べるようにすれば、けっこう豊かな食生活ができるのではないだろうか。
田畑もいわば草の養育ではあるが、それもできるだけ、手間がかからないように自然に循環して、いつでも必要なだけ食べられるような栽培方法に切り替えれば、もっと楽になる。
例えば、稲の栽培はかなり手間がかかるので、麦の栽培はただ種をばらまけば雑草のように生えてくる。そこで、米から麦を主食にすれば、もっと楽な生き方ができるように思えるのである。または、稲を麦のように楽に栽培できるようにすればいい。
美味しいもの、高価のものを求めていく食生活は苦労が多いまるで奴隷生活にはまりこんでいるような気がする。足るを知る食生活は楽でもっと自由になれるような気がするのである。
美味しさ求めて、苦労するより、自然にあるもので満足して、楽に生きる方が自由であると思える。
自然とは自らのままにと書く、自由とは自らによると書く。「自らのまま」と「自らによる」とは同じことではないだろうか。
自然とは人に作為がないことであり、自由とは人に隷属しないことである。作為も隷属も似てないか!
自然と人為の境には何があるだろうか?
それは欲望の中の何かである。「足るを知る欲望」は自然であり、「限りなき欲望」が人為であるように思える。自然は他の生物との共存であり、そこに優劣はない。人為は他の生物よりの優位であり、支配である。
空を飛ぶ鳥をみよ。野に咲く百合のみよ。今日の食事を何をしようか迷うこともしないし、食事代を稼ごうともしない。鳥や百合は自然に生きているゆえに自由であり、人間は他を支配しようとしているゆえに不自由である。
どちらが賢い生き方であろうか? 自由な空を求めて、不自由になっていないか? 「足るを知って」生きる方がはるかに自由に生きられるではないか。
鳥も百合も、殺されそうになると反抗するが、殺されてもけして復讐することはしないだろう。人は復讐のためにどれほど苦労するか。右の頬をうたれれば、左の頬を差し出すようなことはしないが、目には目、歯に歯というような仕返しは他の生物では存在しない。
これからは自然な生き方が自由な生き方だと思った方がよさそうである。