あの世の話

 死んだら終わりや! とはいうが、そこは生まれる前の世界なんだから、
 死んだら始まりやで~! とも言える。

 死んだら何もかも無くなる! とも言うが、一体何が無くなるというのだろうか?
 死んでもまだ肉体も残っているし、その心も残っているので、すべてが無くなるというわけではない。では命が無くなるということであろうか? いや、無くなるのはその人の命だけであって、まわりの命も人類の命も無くなるというわけでもない。
 自分の命というのは、過去現在未来の人類の無数の命の一つにすぎないとなれば、何もかも無くなるというのはかなり大げさなことである。
 では一体何が無くなるというのであろうか? 自分の意識ということであろうか? しかし、寝ている時は無意識であろうし、過去の意識は記憶もされるので無くなるというわけもない。未来の意識とても、その方向に向いていたという意識は遺産の中にも残るものであるから、意識が無くなるということもあてはまらないだろう。

 つまり、死んだら何もかも無くなるのでなく、何もかも無くならないということではないだろうか!

 では死ぬということはどういうことであろうか?

 生まれる前と死んだ後の世界において、生きている世界と決定的に違うのは無我であることだ。死ねばみな仏というが、仏は無我の境地を名付けたものであるから、やはり、死ねばみな無我になるといえるのではいだろうか。

 もし、無我の境地になったとしたら、世界はどのように見えるだろうか? 古今東西の人々はみな一つの人と同じになる。人だけでなく、命あるものすべてが一つになる。いわば、自我を持つ人が死ぬと無我になり、今地球上に生きているすべての命と一つになるということになる。

 では生きとし生けるものだけかというと、無生物であるものすべてともいえるのである。なんせ無我であるから、動物でも植物でもないということになるので、それは無生物である鉱物でもある。

 となると、人が死んでから焼かれれば二酸化炭素や水蒸気にもなるし、骨にもなるので、いろいろな鉱物にもなるというのは当然であろう。

 となれば、無我の境地である死んだ人はこの世のあらゆるものと一体になるともいえるし、あらゆるものになるともいえるのである。

 つまり、死んだら自然に帰るというより、自然になるといった方がいいだろう。死んだら、星や風になるというのも単なるロマンだけでなく、それも真実だといえるだろう。

 ただ、死んだら天国にいくか、地獄へ行くかということはあまり真実身がない。死んだら、天国も地獄も、この世も、みな一つになり、その人はそれらと一体になるといった方が真実であろう。

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