東京籠もり

 青年の時、山奥に籠もって。座禅をくみ、悟りを開きたかったことがあった。今老年になって、籠もり場所は都会のど真ん中東京で壊れたボロアパートになった。

 青年の目的は悟りだったが、老年の目的はリフォームである。悟るために、動かないこと、食べないこと、眠らないことであるが、リフォームするためには動くこと、食べること、起きることである。

 さて、両者の目的である「悟りとリフォーム」にどんな関係があるのだろうか?

 それはどうやら、「動かないで得られるもの」「動いて得られるもの」の違いになるだろう。

 ならば、悟りは老年に合い、リフォームは青年に合うことになる。どうして、現実は逆になってしまうのだろう。

 それが現実は矛盾の毎日って感じになるのかもしれない。ともあれ、現実が逆であっても、老年の私にとっては、悟りよりリフォームの方が大事である。

 なぜなら、悟りには終わりがなく、結果がでないからである。悟りに結果があるとしたら、小さな悟りであり、それが結果が出る悟りで、いわば。1+1=2 でありことを学ぶような一つ一つの具体的なものである。

  となれば、老年の具体的な悟りはリフォーム完成ってことになる。それが東京籠もりである。

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