意見が正反対だと、そこは険悪な場所になる。最悪は殺し合いにもなりかねない。以前、社会主義と自由主義が世界を二分していて、世界核戦争になるくらいに緊張したこともあった。
こうした思想の対立を超えて、仲良く、お互いに相手の理解を深めようとする仲裁技術がもっと発展してもいいように思える。
また、実際の喧嘩は思想の中身ではなく、その言い方、その人の人格を批判することでさらに喧嘩がひどくなってしまうことが多い。
思想の対立は宗教の対立のようなところがあり、それを融合させることはまず不可能であろう。むしろ、信教の自由のように、それぞれの思想を尊重しあうような態度が和合できる道がある。
また、自分の思想をどうしても押しつけようとしてしまうと、その真意は伝わらず、逆効果になる。そこで、やんわりと笑いを通じて伝えようとすると、相手をけなすジョークのようなものになると、やはり逆効果である。
笑いは常に相手を尊重して伝えないと効果がない。相手を尊重する態度だけでも、相手は受け入れる安心感を持つことができる。
無名の新人で脱原発をうったえて、参議院選挙にでた三宅洋平は落選したものの、16万票の支持をえたのは、その選挙活動が音楽ライブであったことだ。もし、これをストレートに言葉だけで選挙活動したら、見向きもされないだろう。
音楽という文化活動は思い(思想であれ)を伝える表現の一つである。その音楽が相手に快い気持ちを与えるなら、その思いは伝わるが、不快音ならば逆効果で相手を遠ざけてしまう。
内容が相手を不幸にするようなものであれ、相手を喜ばすような嘘をつくと、相手はその思いを受け入れてしまうのが詐欺商法でもあるし、一部当選した議員の選挙活動にもつながるところがある。
人はなぜ騙されるか? これは中味よりも、上面や言い方が快く喜ばしいからであろう。
批判が的を得ていても、不快だと伝わらない。どんなにいい商品でも、そのデザインが不快だと買わないのと同じである。
理想は中味も上辺も快いものである。だが、そうした完全なものは非常にすくない。良薬口に苦しであり、甘きものはメタボにさせる。むしろ、醜い石ころを磨くとダイヤモンドの輝きのような表現技法がもっとも大事であり、それが思想を超えて仲良くさせる表現文化になるだろう。