お金は誰のものにもなりえない

 先日ゲゼル研究会の講演があったときに、その会員の一人からアンケート用紙が配られた。それはゲゼル理論への疑問点である。

「ゲゼルは減価するお金を提唱していますが、それはお金を貯蓄することを否定していませんか?また、貯蓄することは必要がないのでしょうか?」

 という質問だった。ゲゼルは本の中で確かこう答えている。「どんな動物も、将来に備えて貯蓄する習性がある。お金が減価するからといって、貯蓄をしないようにはならない」

 そんな内容だった。それは、必ず消滅する食べ物であれ、それを何か飢饉があったときのために保存するのは当然の行為だ。お金もまたそうなるだろうという意味に私はとらえた。

 最近、私はゲゼルがはっきりと言い切らなかったことを、もっと進めて考えてみた。すると、こんな結論が導き出された。

「お金は誰のものにもなりえない」

まず、お金を貯蓄するということはどういうことか?ということだ。

私たちがお金を貯蓄する場合は、銀行にお金を預けることだろう。自分の家にお金を貯蓄すれば、火災や泥棒にあって、全部失う危険があるからだ。

 銀行に預金されたお金はそのまま使われないで、ただ預けられたということはありえない。銀行は預金されたお金を元手に他の人にお金を貸し、それをまた返金させる。それがしいては国債になり、またはアメリカの国債にも使われる。これは国民年金でも同じことである。

 でも、銀行に預けたお金は自分が必要なときはいつでも引き出すことができる。その引き出したお金は自分が預けたお金ではなく、めぐりめぐった他人のお金である。企業が返金したお金か、誰かが 預金したお金か、国債が償還されたお金かである。

 つまり、お金には自分の名前が付けられないものである。唯一、お金に名前が付けられるのは日本銀行だけである。そのため、お金を貯蓄するということは、他人にお金を貸して返してもらうという行為に他ならない。それは発行者の日本銀行だけが名前を持っているので、貯蓄できることになるが、日本銀行がお金を発行し、多くの人のそのお金を使ってもらわないと存在できない。そのため、たとえ名前があったとしても、貯蓄する意味がない。つまり、銀行券を発行した日本銀行の主旨である、お金をすべての人に使ってもらい、めぐりめぐらせることが貯蓄するという意味なのである。

 そのため、先の質問は別な問題となる。自分が必要なお金がいつでも得られるかどうかという問題である。それはお金の問題というよりも、モノやサービスの貯蓄の問題と同じである。お金はそれらと交換する証文にすぎない。そのため、将来にそなえて、お金を貯金するということは、モノを保存することと同じととらえてかまわない。どんなモノも老化し、消滅するように、お金は使わなければ老化し、消滅する。

 しかし、モノもサービスは使われ、消滅と生産をくりかえすことで、人が必要なモノトサービスが得られるように、お金もまた、使われ、消滅と生産がされてこと、一定の必要なお金を得られることができる。

 ゲゼルの提唱した減価するお金は、お金をより使わせるためのシステムなので、むしろ、人々が安心してお金を引き出すことができるシステムになるということである。

 実際問題、銀行に預けた100万円が年に1%減価して、99万円になることと、年に1%増えて101万円になることと違いで人はどのような気持ちになるだろうか?

 たとえば、子供の将来の教育資金をして、お金と積み立てたとしよう。

 現在のようにお金がお金を生み出すシステムだと、後者のように、より利息が入る投資に頭がいくだろう。年に2%の利子がつくような投資銀行にくら替えするだろう。株式投資や、為替の差益をねらう行為に走るだろう。

 でも、年1%減価するとしたら、お金でお金を増やそうとはしないで、お金をモノやサービスに変えて、お金と増やそうとするだろう。教育資金があまりかからない公立の学校にいかせるために、より子供の勉強させるだろう。また、もっとお金を稼ぐために、仕事をより効果的にするだろう。

 そのため、減価するお金はより実体経済が大きくなり、金融経済が小さくなる。増価するお金はより金融経済がふくらむが、実態経済は小さくなるのである。

 これはお金を貯めようとすると、モノやサービスが減少し、モノヤサービスをためようとすると、お金が減少するということになる。

 暮らしを安心させるためには、モノとサービスを増やすことであり、お金を増やすことではない。そのため、現在のお金がお金を増やすシステムをお金を減価するシステムに切り替える必要が、将来安心して暮らせる経済システムになる必要条件なのである。

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