矛盾の対処法

 日祭日に、リフォーム工事をするとかなり音がたてるので、静かに休日を楽しんでいる近所に迷惑がかかりそうなので、私も休むことにした。

 私の工事なので、普段は自分のマイペースでやっているが、近所の人の迷惑を考えるとそうはいかなくなる。これは個人と社会の要求の矛盾からくる調整が必要になるときだ。

 矛盾(ほこたて)という人気番組があるが、これは中国の故事からとったものだ。

矛盾
奈津子の徒然雑記帳より

「矛(ほこ)と盾(たて)とを売っていた者が、「この矛はどんなかたい盾をも突き通すことができ、この盾はどんな矛でも突き通すことができない」と誇ったが、「それではお前の矛でお前の盾を突けばどうなるか」と尋ねられて答えることができなかったという話」

 これは個と個の間の感情論でしばしば争われる現象である。そこで、矛と盾の強さの闘いが始まり、強い方が正しいという結果と解決になる。

 しかし、この矛盾闘争は一回では終わらない。それはボクシングのように何回か勝負が行われ、どんなチャンピョンであれ、それが永遠にチャンピョンであることはありえないように、どっちが絶対に正しいということはありえない。あるとしたら、その時は正しいということだけである。

 個と個の矛盾闘争は、個と社会の矛盾闘争にまで発展する。社会とは個の集まりであり、その集まりの数が社会の姿になる。そのため、小数社会と多数社会との矛盾闘争も起きることになる。社会は個の集まりであるために、一人の代表個人がその社会の統一する顔が必要になる。

 個も少数社会グループも多数社会の一員ではあるが、それは内部矛盾闘争という形で行われる。自分の心の中でも正悪の葛藤の迷いがあるようなものである。

 個と社会とどっちが強くて正しいか? これもまた矛盾闘争になり、その時々で個が正しかったり、社会が正しかったりする。どっちが絶対的に正しいということはありえない。この世に絶対的なるものがないように。

 それは社会の顔が多数決で決まるが、その多数決が常に正しいとは限らない。その時は正しくても、後になって正しくないことも多くある。そうした多数決もやはり矛盾闘争にすぎない。

 神仏は絶対的な正しさを象徴しているが、その神仏存在論も矛盾論争と同じであり、神仏の存在はその時その時に人の心に現れるものであり、常に同じ人に現れることはない。

 このように矛盾闘争の現象を観察すると、どう社会と自分が向き合っていいのか、また、どんな社会を築いたらいいのかが、解ってくる。車を社会とすれば、矛はアクセルであり、盾はブレーキである。

 今日本は多数派の自民党の経済促進アクセルで加速させているが、それは原発爆発のような大事故になる危険があり、少数派の脱原発の自然環境ブレーキという社会安全調整が必要と判断できるのである。

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