正価ということ

江戸時代に、確か? 三越の創業者がそれまでの「負けて買わせる商品価格を廃して、正価として、けして負けない正札の表示通りに売ったことで、信用されて、現在までの繁栄を築いた。この正札商法は日本では主流になっているが、途上国では負けて買うのが当たり前になっていて、売り手の言い値で買うのは馬鹿だと思われている。

しかし、現在の日本でも、営業をする場合、寅さんのように、最初にべらぼうな高値でふっかけて、だんだん負けて正価までもっていって契約成立になるのが当たり前である。逆にオークションの場合、買い手が多いことを想定して、まず、最低の価格で売り出し、もっとも高く買ってくれる者に落札する。とくに、絵画のオークションでは金持ちがべらぼうな高値で落札することもある。

商品の価格は需要と供給で決められるのは当たり前であり、その決まり方がイベントや文化にさえなる。しかし、この需要と供給が庶民同士ならば楽しい文化であろうが、金持ちと庶民の間では残酷なドラマである。

この残国のドラマが毎日行われているのが通貨の売買である為替であり、その通貨の価格はすべて金持ちが決めている。金持ちはその売買の差額でさらに儲けようとしている。毎日報道される為替レートと、平均株価である。庶民にとって、株も外国通貨も持っていないし、売買することもほとんどない。株や外国通貨を売買してさらに金儲けできるのは金持ちか、ギャンブル好きな者だけである。

商品の値札である通貨が、売買されること事態おかしなことながら、通貨売買で、ギャンブルできることさえ、不謹慎な行為である。それはまっとうな商人ならば、感覚的にそんな金儲けは拒否するだろう。お金が命を支えるものであるなら、通貨売買は昔の奴隷の売買のような行為にうつるはずである。

商品の売買と通貨の売買の決定的な違いは、商品供給は自然の産物で無限にできないが、通貨供給は人間の産物で、無限にできることである。それは通貨売買においては、コントロールできることであり、三越商人のように正価を決めて売買できることである。庶民も金持ちも同じ価格で安心して商品が売買でき、やたらな画策も苦労もいらない。必要なモノを必要なヒトに、正当な値段で分与される。

為替レートの正価はお互いの庶民同士の需要と供給で決められるべきで、投資家同士のマネーゲームで決められるべきではない。現在の変動相場の決め方はビットコインのように売り値と買値の平均値で決められ、一分単位で大きく変動するのはハカリが壊れている状態といえるだろう。

為替レートの正価はお互いの国の平均物価で計算されればよく、それは購買力平価で毎年発表される。しかし、物価は国によっては一日おきに、変化しており、年ごとでは正しく判断できない。そこで、天気予報のように、その国の平均物価だけでなく、平均給与も加味して自動調査報告させて決めることができるだろう。その通貨交換(売買)量は中央銀行が無限に発行廃棄を国債や株の売買することで、コントロールすることができる。

 

 

 

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