努力の花を咲かせよう

脱原発を今年の目標にしたが、脱原発と知事を目指した細川氏が結果的に大差で破れたことで、自分の無力さを思い知らされた。そして、脱原発自体を目標にする自分が間違っていたのではないか?! 自分ができることから、あまりにも遠い政治的な内容だったのではないか!

自分が脱原発でできることは、唯一選挙で脱原発を目指す議員と、脱原発を実現できる一番強い政党に投票することであり、個人的には電気を節約し、自然エネルギーだけで電気をまかなえるように開発することであろう。

そして、自分しかできないことをここに当てはめると、投票と電気節約だけになる。しかも、投票は自分の主張、電気節約はダイエット生活にも発展してくる。それらは脱原発にははるかに遠い内容だが、縁でつながっている。

急がば回れ であり、目標が大きすぎた場合、自分ができることを選び、しかも自分しかできないことを発展させ、そこに全勢力を集中させることである。すると、努力すれば確実に成果が得られる。無力感などはどこふく風だろう。

今やっているリフォームや畑仕事にしても、ダイエットの運動としてやれば、その結果が自分の体に起こることである。しかも、リフォームも畑仕事も、本当に必要なことだけをするように絞れる。畑にビニールハウスは必要なかったように、リフォームだって最低限に必要な設備だけにすれば、よけいな手間も、問題も起こらない。

ダイエットとは質素な生活を心がけることで健康と長寿になることである。ダイエットはただ痩せればいいというのではなく、本当に必要な食事と運動だけに絞り込むことで、日々の快適さを実現することである。

今までため込んでいた余分な脂肪や余分なモノを処分し、今後持たないようにすること、そして、快適な運動や仕事を生活のリズムにいれこんでいくこと、それを実現するにはかなりの努力がいるが、それが実現できて、習慣化すれば 常に快適に生活できる状態になると思える。

質素な生活にあった畑と家造りがそれとともに形作られるようにも思える。それを今年の目標としてみよう。

理論的には矛盾するかもしれないが、自分しかできないことをしていくと、無私の精神になってくる。

もし、自分という意識 私という概念 を無くしてしまえば、そこに死はありえない。死が無かったら生もありえないというのが論理ではあるが、実際は個人の死はあっても、人類全体の死までは数万年あるだろうから、自分という意識を無くすと、人類の生存という意識だけになってくる。もっとも、人類という意識さえなくせば、生物全体また地球が消滅する数十億年の命だけの意識にもなるということだ。

自分しかできないことをみれば、人類全体にとっての自分の役割みたいなものであり、ほんの小さな一瞬の輝きみたいなものだろう。でも、それが人類の存続にはかかせないものであったことは、どんな人の一生でもいえることである。それが人類の記憶にも残らないにしても、必要あって生まれ、必要あって死んでいって、人類を支えていることは確かなのだ。

努力というのは運動のようなものだ。少々の運動は快適なように、少々の努力は快適なようなものであろう。名も知らない花が咲くように、個人の努力の花も咲くだろう。その花が散っても、咲いたという事実は消えることはない。

 

 

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