神仏とは本当になりたい自分だった

社会や国は実際に存在するのではなく

それは単に個人の集合体という名称である

神仏だって

人類が求める理想の姿の名称であって

実際にこの世にもあの世にも存在するものではない

では一体

国や神仏があたかも実際に存在するかのように思いこんでしまうのだろうか?

この地球 この宇宙は実際に存在しているが

その存在を確認し 証明する存在は生きた自分である

社会や国が地球や宇宙の存在を 科学的に証明しようと

それを受け入れ信じるのは生きた自分である

つまり

生きた自分が存在しなければ この地球も宇宙も 社会も国も 存在しないのである

存在しないだけでなく 存在さえできないのである。

 

このことは

国も神仏も 生きた自分が存在せしめているという事実である

では 生きるとは何なのか?

生きるとは 明日の自分に向かって進むことである

逆に死ぬとは昨日の自分に帰ることであるともいえる

 

存在とは時間がなければ成立できないので

存在は時間であるとも言えよう

つまり

今日の自分が明日の自分に向かって生きるときに

国や神仏の存在を証明するだけでなく 存在せしめるのである

すなわち

神仏とは明日の自分の姿だったのである

明日の自分とは自分がなりたい自分の姿である

それは神仏だけでなく

この地球 宇宙 社会 国の存在さえも

明日の自分を回りから観た姿であるといえるのだ

そのことは

神仏も 地球も 国も

今生きている70億人の数だけ存在する

存在するというより 存在せしめている

それは

存在すると思いこんでいる 信じ込んでいるともいえる

逆にいえば

あなたがどう信じるかで

神仏も国も地球も宇宙も 違って存在しているように見えるということだ

よく

自分が変われば 世界は変わってみえる というが

その通りで

自分が死んだら 何も見えない

自分がどう感じるかで

神仏も世界も 違った存在になるのである

だったら

明日の自分をどうするかで

神仏もこの世界も変わって存在してくる

それは

自分が本当になりたい自分の姿が

神仏であり この世界であるということなのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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