ダイエットに挑戦して7ヶ月
目標の20キロ減にもう一歩のところで 二度も2キロ以上リバウンド
自分の薄弱な意志に愛想が尽きて 一体どうして食べ物の誘惑に弱いのだろうか?と考えた。
自分の欲望の正体が本当の自分ではない!と気づいた。
それを食べたいという欲望が起きるとき そこに食べたいものが豊富にある時だ
もしそこの食べたいものがなかったら そんな欲望は起きない。
「なぜ山に登るのですか?」という質問に有名な返答がある
「そこに山が在るから!」
これはまさに「その山に登りたい」という欲望の本質が「その山の存在」から産まれるということを示している。
私は三度も ある宗教的な教義への盲信で 大きく人生の失敗した経歴があるが
これらの教義は信徒以外においては 教祖の洗脳にあたるもので真実ではなく迷信だった。
そうした盲信した宗教からなんとか苦労して脱却して思うのだが
「いったいどうして そんな迷信を信じてしまったのか?」
私自身それが教祖の洗脳であるとは当時気が付かず 自分から進んで信じていったと思っていた。
迷信が本当の真実だということを信じたのは その教義に惚れ込んでしまい 天国に入る夢をみたからであった。
盲信する以前から「宗教はアヘンである」ということは知っていたが
それでも「それは宗教ではない」ということから「盲信」し、知らず知らずその「心的依存症」になってしまった。
教義を実践してもその通りにはけしてならなかったり、教祖がスキャンダルなことをして 始めて目が覚めることができた。
もしそうした教祖や教義が存在しなかったら そんな盲信もしなかっただろう。
盲信も依存症も同じ本質であり
それは他から来る刺激から条件反射のような同じ欲望が起きるものであって
けして その欲望は自分自身の中から出てきたものではないことだ。
つまり
ダイエットしようとする本当の自分自身の欲求と美味しい食べ物が目の前にあって生じる自分の欲求が正反対になり
その矛盾という葛藤に苦しめられるのはそのためだ。
存症になりやすい 酒煙草ギャンブル宗教肥満は本質的に類似しているので
その依存症から脱出する方法も類似してくるのである。
その存在が誘発して欲望が産まれるという真実は
依存症になることも その依存症からの脱却にも応用できるものである。
私が宗教から脱却できたのは教義を信じるのではなく 事実を信じたからである。
裁判でも 「論より証拠」で決着がつくように どんな迷いも争い毎も 「事実に勝るものはない」
宗教は事実ではない存在を信じるために起きた現象である。
その神仏が存在しないのに存在していると思いこんだために起きた欲望が信仰である。
その存在がその欲望を生むという現象は 偽りの存在でもその欲望を生み出す。
その場合、
本当の自分の欲望はその事実から産まれ、偽の自分の欲望は偽の事実から産まれる!
これはダイエットで
目の前の美味しいモノを食べたいという欲求は それが偽の美味しいモノから産まれたものであり、
美味しいモノは実は後で胃酸過多になったり 脂肪として蓄積されメタボに変化するものであるのが事実であり
けして本当にそれが常に美味しいモノではないものである。
依存症になりやすいものは最初だけが天国だが あとで地獄になるものがほとんどである。
こうした依存症もまた事実であるなら その現象を利用して 本当に自分が欲するものを実現する技術も生み出すこともできる。
信じるなら 事実だけに絞り 事実以外は信じないことである。
また欲望や夢の内容も事実や自然にあったものを選んで実現しようとすることである。
ピンチはチャンスになるように
盲信してしまった技術は真実を実現する技術にも応用できるもので
祈りの生活が自分の人生を一変できるように
事実に即した夢への祈りの生活もまた実現する大きな力と支えになってくるだろう。