ハムレットが父の敵を取るか、取らないかを迷う時
to be or not to be, that is the question
多様な変化をする存在am are is の実存be動詞を使っている
その名和訳が
生きるべきか 死ぬべきか それが問題だ
ハムレットは自己葛藤を自分の心の中で行っているにもかかわらず
I も me も私という主語も目的語も使わない。英語において主語を使わないなんて実に珍しいが
私という意識や存在がないこと自体 人生の本質を表しているのかもしれない。
to be 存在は三次元空間的な視点で 時間を考慮していない
私という自己存在は身体的存在であり、
私が生きる=存在する
私が死ぬ=存在しない
ということである。
私という存在は生きるか?死ぬか?の二者択一の問題の中に存在するのである。
もし そこに時間意識を考慮したら
私が生まれる以前 また 死んでい世界 は私どころか他すべてが無い世界である
地球誕生45億年の中の私の一瞬の100年の生存など 比較したら あってなきもの というより 全く無き者だろう。
だったら私という存在より 地球の存在自体を論じた方がよさそうだが、
地球だって 宇宙の大きさと時間と比較したら あってなきもの というより 全く無きモノ」だろう。
一日一生と言われるように
時間はどこで区切るかがで 時間存在そのものが有るか無いかである
一日は地球が一回転 ひと月は月が地球を一回転 一年は地球が太陽を一回転することだ。
私という時間は生まれ死ぬという一生一回転という時間の区切りで実存するかしないかである
無限という空間も時間も あってなきもの というより 全く無いモノといってよいだろう。
時間も空間も区切って有限にすることから始まり そして終わる。
to be or not to be, that is the question
に時間的区切り意識を考慮したら
to do or not to do, that is the problem
それを為すべきか 為さざるべきか それが問題だ。
どんなにハムレットが悩もうと結論は 為すか? 為さざるか? の二者択一しかない。
結論は父の敵を討たない!とそれを為さないという行為である。
為さないといいう行為は投票と一緒で 棄権ということであり、
いわば二者択一白黒つけないその他の行為であり、灰色50%の行為ともいえるもので、
二者択一ではなく三択また多選択であり、二者択一問題そのものの否定でもある。
忠臣蔵のように父の敵を討つ日付をいつまでにするかで、その答えは逆転する問題でもある。
つまり もっと正確に自己葛藤し悩むならば
to do or not to do, when by? that is the problem
無限が無きモノと同じように
期限なき約束は無き約束と同じである、遺言書のように。
私という生存が do という行為により存在するならば
その行為には具体的5W1Hがあって初めて意味を成すのである。
when where who what why の5Wと同じように how の1Hが同格なのは
平和のための戦争howは 無限があってなきもののように あり得るようでないもの つまり全く意味なきものである
それは長い人類の歴史からも証明されるであろう。
what生きるって何か?の問いと同格な問いが howいかに生きるべきか?なのである。
平和は健康のように
いかに実現維持していくか それが問題であり、病気戦争して健康平和を実現するものではない。
ダイエットのように病気戦争にならないよう予防する行為 日常生活なのである。
ダイエットでも平和でも 相田みつをが言うように
アノネ
(ダイエットでも 平和 脱原発だって
ソウ)
がんばんなくてもいいからさ
具体的に動くことだね
ともかく
具体的に動くことだね。
いま、ここ、を、具体的に動く――
それしかないね。
具体的に動けば
具体的な答が出るから。
自分の期待通りの答が
出るかどうか
それは別として
具体的に動けば
必ず具体的な答が出るよ。
そして――
動くのは自分
(ソウ考え行動すればさ 悩む必要も葛藤も戦争も必要ないんだよ)
アノネ
ハムレット
復讐するかしないか?
to be or not to be, that is the question
と悩む必要なんてないんだよ
when? where?who?what?why?how?
to do or not to do, that is the problem
と具体的に動けば
自分の期待通りの答が出るかどうかは 別として
具体的に動けば 必ず具体的な答が出るよ!