今までず~と勘違いしていた。
自分とは自分の身体のことだと思っていたことだ。
それはまた自分の心と観察力を一緒くたにしてしまうことでもあった。
自分とは身体と心の両面をもち 性質も姿も違うが けして切り離せない関係である。
自分を観る眼は誰にでも在り それは客観ともいう。
主観で主観を語れないように 自分で自分を観ることはできない。
自分を観そして語ることができるのは客観しかない。
この客観こそ自然である。
人間と神仏を対比して対話するが
それはインド思想の信心である「神我一如」からくる想像であり、
自分の思いを世界に描くようなものである。
神が善悪の判断をしたり、人を選んで救ったり救わなかったりする愛のような姿をするのは
神が人の思いから創造されたものだからであろう。
人の思いとは人は我の集まりであるから、自分の思いでもある。
神仏の名前がいくつもあるように また同じ神仏を信じていても たくさんの宗派が在るように
神仏はいろいろな人の自分の思いから創造されたものだからである。
人の思いとは別に
宇宙にたくさんある星は爆発しては収縮を数百億年をかけて生死のように繰り返す
地球の姿 そこに住むたくさんの生物の姿も またまったく同じ姿にはならないが生死のように繰り返している。
それを自然という。その自然は事実ともいい ときに人の言葉に照らして真実ともいう。
その自然の姿は人の客観として共通認識できるものであり、また他の生物にとっても同じ認識ができるものである。
この自然の客観が在るからこそ 自分も他人も 神仏も 宇宙も地球も 共通認識また受容できる。
ダイエットも どんな戦いも 人の欲望との戦いであり、
そうした欲望との戦いとは無関係のような自然客観性ではあるが
長い時間をかけて 「なるようになっていく」ような欲望と身体を支えている。
星の爆発収縮を止めようがないように 命の生死のくりかえしも止めようがない。
それは時間がけして止まらないように 星も命も生死を繰り返す それが自然と客観である。
もし欲望との戦いに疲れたら 自然と客観で一休みすればまた回復して戦えるだろう。
欲望だって睡眠が必要だからだ。