ゴチャゴチャになった倉庫をどう片づけたらいいのか? 途方にくれることがある。
それと同じように これからの人生がまったく見えない時がある
そういう時 いったいどうしたらいいのか 迷うし、考えても 逃げても 解決できない。
何も考えずに まず やってみる! 目の前のゴミやモノから整理してみる!
同じように 人生に途方もくれたら
何も考えずに まず 生きてみる! 目の前の問題に向かって進んでいく!
その先がどうなるか なんか想像しなくてもいい とにかく 直前の問題に自分ができることをするだけでいい。
すると いつの間にか それができてしまう 解決している。その時の幸福感はひとしおである。そうした経験を何度も経てくると 生きる自信がついてくる
それが自立するということだろう。
昔 経済的自立が自立することの第一歩だと思っていたが 64年も生きているとそれが違うことに気が付いた。経済的自立なんて 最後までできることではないのだ。
今自分が経済的に生きていけるのは亡くなった親が残してくれた遺産があるからだ。自分で作った会社だって 解散せざるをえなかったし、なんとか生きてこられたのは親が残してくれた不動産があり、それを活用したからだ。
つまり 経済的に自立できたのではなく 経済的に親に生かされたのが真実である。
この自分の心身だって 親から与えられたものであり、自分で自分の心身なんか創造できるはずもない。経済的自立なんてものはそもそも無理であり、経済そのものが 自他の助け合いシステムであるからにして そうだろう。
過去が無ければ今も未来も無い。親も人類の歴史も今の自分の過去である。その過去がどんなに悲惨であれ 今自分が生きていれば その親と人類の過去に生かされているのだ。
今生きているということは 過去の他人に生かされているということだ。
その過去から逃げて死んだり 投げやりになったりすることは 自殺自滅行為である。
過去の親や人類に自分が今生かされているという自覚は 見えない自分の未来を明るく照らす。
自分から観れば自分は他人に生かされているが それは逆に他人から観れば 自分は他人を生かしているということも真実である。
自分の子どもを育ててきたのもそうだし、畑の作物だって 毎年育てて 生かしている。自分はいつか寿命で死んでいく未来ではあるが 子どもを育て生かしていくことは自分の未来を子どもにバトンタッチさせることである。
それは自分の未来は子や社会人類を生かす姿というのも真実であるのだ。
今生きるということは過去に生かされ、未来を生かすということである。
今にしか自分という存在はなく、過去にも未来にも他人の存在があるだけである。
自立ということは 今生きること 過去に生かされること 未来を生かすことである。