やっと草刈が終わった!
一か月も畑を放置していたら
雑草が我が物顔で稲や大豆より二倍三倍も伸びて
実り始めた稲穂をやっつけようとしていた
草刈り機 草刈カマ 手摘みで、4日かけて 草刈した。
畑の一番の高台にある、まるいテーブルのパラソルを差し込む真ん中の部分を外して そこの八重桜の苗木を植えた。
その桜こそ 私の樹木葬として 私の魂の置き場所にした
そこから 富士山も 畑も 自宅も見える。
もう20年前から 父母の墓探しをしてきた。
都内の多磨霊園に父母が祖父母の墓を造ったが 兄弟姉妹との遺産相続裁判で勝利したものの、母方の家の先祖であったため、長女の養子に墓を譲った。
母はよほど悔しかったのか、「住まいの近く 毎年の管理費が安い寺でなく公共の霊園に とにかくでっかい墓を造れ」と遺言された。
多磨霊園に父母の遺骨を5年預けて、大きな墓の空きを毎年抽選して待ったが落選してしまい、遺骨を自宅に戻した。
その墓探しをして、田舎暮らし、山村留学、そして現在の山梨の自宅になった。
その墓探しの20年で もっとも理想的な墓は海などに散骨する自然葬だと落ち着いてきた。先祖や家に縛られる人生よりも各自自由に生きられる一生がよいと思えるからである。
そして現在大きな仏壇の中に 父母の遺骨をトンカチで細かく砕いて瓶にいれ奉っている。散骨はしないで ちょうどヒンズー教における聖灰や神道のお清めのお塩のように、自分なりの方針を決めたり祈ったりする時の儀式に父母の聖灰を使わしてもらっている。母の聖灰は転移した肝臓癌で亡くなったせいか ピンク色をしているので 父母の聖灰はまさに紅白の応援歌のような おまじないである。
海に散骨する場合、散骨したところが墓である。樹木葬の場合、その前にあるネームプレートが墓である。ヒンズー教ではガンジス河などの聖なる川にダビして流すので 聖なる川が墓である。
自然葬において、一番の問題となるのが、散骨した場所よりも、死者の名前である
日本仏教なんかは死んだら修行僧としての戒名を与えるくらい重要な問題である
自分とは何か? と問い詰めたら、最後まで残るのは名前だけである。もし名前をとってしまったら、自分も その魂も 他人と区別できなくなるので 自分という意識さえ消えてしまうことになる
遺灰だって そこに名前がなければ 人間だけなく動物植物の遺灰と区別さえできなくなる。名前が無いことはその者の生死もあってもないものになる。
最終的に自由になるためには、無我つまり自分の名前を消すしか道がない。他人あっての自分存在だからである
どんな著作権だって いいとこ数十年がいいところだろう。死者が生者によき影響力を与えられるのも やはり同じ数十年がいいのではないだろうか。それを何百年何千年と神の名前で未来人を縛り上げるのは 洗脳的呪縛隷従になり、未来人を自由にさせず、信徒をその解釈で殺し合いの戦争させてしまう結果にもなりえる。
そのため、私の遺灰は名前をつけずに 仏壇に中に数十年間だけ置いて、何かの応援儀式にでも使ってもらい、無くなったら、子供たちを応援してくれる魂の人の遺灰でも入れておけばいいと思う。
この写真にある桜の木が墓であっても、そこに遺灰を播かず、名前も記さず、誰でもがそこで毎年花見をして楽しめる場所になってほしいと願う。