「人は考える葦である」
「人間は自然のうちでも最も弱いひとくきの葦にすぎない。しかしそれは考える葦である。
これをおしつぶすのに、宇宙全体は何も武装する必要はない。風のひと吹き、水のひとしずくも、これを殺すに十分である。
しかし、宇宙がこれをおしつぶすときにも、人間は、人間を殺すものよりもいっそう高貴であるであろう。
なぜなら、人間は、自分が死ぬことを知っており、宇宙が人間の上に優越することを知っているからである。宇宙はそれについては何も知らない。
それゆえ、われわれのあらゆる尊厳は思考のうちに存する。
われわれが立ち上がらなければならないのはそこからであって、われわれの満たすことのできない空間や時間からではない。
それゆえ、われわれはよく考えるようにつとめよう。そこに道徳の根原がある。」
「我思う故に我在り」
「葦(アシ、ヨシ)
日本では
”あし”は「悪(あ)し」にも 通ずるため、「善(よ)し」の 別名をもうけられ、
茎の中は空洞になっているのも 面白い。
茎の中が空洞であることから、この葦で船も造られたことがある。
「私」という存在は
人が生まれ死ぬまでの意識の源であり、
そこから湧き出る泉は「私の心」である。
私の心は
泉の水面に月の姿が映るように、
空き部屋に色々なモノが入るように
悪しき姿も良しき姿も映り、入ってきては
葦船のように漂う。
その様をみて、人の性悪説、性善説も生まれてくる。
古来の日本人は海外のどんな神々や仏も、みな
遠くからやってきた旅人のように、尊敬し、受け入れてきた文化を持っている。
その受け入れ方は 言葉の駄洒落のような発想法で、変換され
日本独自の文化として 発展してきた。
葦は「悪し」では縁起が悪いので、「良し」とも呼ぶことにしたのもそうである。
私もフランスのパスカルの言葉 「人は考える葦である」を駄洒落して
日本人文化らしく、「人は考える足である」という諺を作ってみた。
人は考える足である
ありがたや権兵衛
哲学の道・・24歳の時、私も夕方散策したが、
恋人たちが抱き合う姿が多く、思索どころか、心が大いに乱れた記憶が残っている(ハイデルベルグ)
通常人は座って頭で考えるが、健康的には散歩しながら考えた方がいい。
禅には静的禅と動的禅があるように、
哲学者も古来から散歩しながら学生たちと会話したりして、一緒に考えていた。
記者は真実を探るべく、現地に足を運び、関係者の話を聞きにいく。
人は足で考えた方がより真実に近くなる。
それは
より真実に近づくため、人は考える足になる。
まことに
人は考える足である。