イスラム教には信教の自由がないどころか、
「棄教すると死刑」だとする聖典の箇所を探した
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アブー・ムーサー(彼にアッラーのご満悦あれ)によれば、ある男がイスラームを受容した後、ユダヤ教徒になりました。
するとそこにムアーズ・ブン・ジャバルがやって来て、‐その男はアブー・ムーサーのもとにいました‐言いました:
「“一体この男はどうしたのだ?”
(アブー・ムーサーは)言いました:
“イスラームを受け入れた後にユダヤ教徒になったのだ。”
(ムアーズは)言いました:
“私は彼を殺すまで腰を下ろすまい。(それは)アッラーとその使徒が定めたことなのだ。”」
(アル=ブハーリーとムスリムの伝承6)
ブハーリーのハディース集成書『真正集』「聖戦」第149節2項、
「背教者と反抗者に悔い改めを求めること、および彼らと戦うこと」第2節1項など
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一方 コーラン(クルアーン)2章256には
信教の自由は保障されている。
この矛盾に対して
ピュー・リサーチ・センターPew Research Centerの調査結果によると
「棄教(背教)者は死刑に処するべきですか」という質問
「信教の自由を支持しますか」という質問
イスラム教徒にとって、信教は自由だが、棄教は死刑であるということが矛盾ではなく、当然として受け入れられているのは一体どういうことなのか?
これは「イスラム教を信じるかどうかは自由だが、一度信じたら、アラーの神に命を捧げなさい。もし、背教したり、棄教した場合は死をもって償いなさい」ということであろう。
なぜ、イスラム教徒は信教の自由を誤解しているのかというと、「アラーは唯一の神であり、他に神はいない」ということを信じ、公言したら、それに背くことはアラーの神への冒涜であり、地獄へ落とされるという特殊な信仰だからであろう。アラーの神だけは、他の神と違って、アラーの神を信じる信じないは自由ではないのである。
こうした背教の死刑は、古今東西の軍隊でも同様に行われていた。軍の上司には絶対服従であり、脱走は死刑に処されるという恐怖心を植え付けることで、軍全体の統一を鉄壁のように固くすることで、強い軍隊が出来上がるからである。
宗教や軍隊の組織は絶対君主制であり、ピラミッド型で、神と将軍に絶対服従させて、統率させるのが通常である。
歴史上、モンゴル帝国、そして、オスマン帝国は強い軍隊でもって、アジア・ヨーロッパを征服支配した。そうした軍隊の規律にはイスラム教は実にマッチしたのだろう。
現在のイスラム圏とも合致してくる。
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「アルカイーダ、イスラム国、ボコ・ハラム、…等々、ほぼ凶悪テロ組織ってイスラム教ですよね、
何だかんだ言っても、イスラム教とは関係ないとか、イスラム教はテロを認めていないとか、イスラム教が邪教だと迫害されはしないか心配だとか、いくら一所懸命に言い訳して言い繕ってはみても、
実際に行われている事実としては、大規模的に残虐凶悪テロを実行し繰り返している組織の殆どは限りなく九分九厘に近くイスラム教ということはまぎれも無い事実ですよね、
ということは、イスラム教という宗教に多いに問題の根源が存在するが故と解釈できるのではと結論付けざるを得ない、
冷静に客観的に論理的に考察するに、こんな宗教は全世界から地球上から抹殺してくれよ、という人々の心からの本音の魂の叫び、これ当り前の感覚の上での言動ではないか、
洗脳カルト宗教と言われても致し方無し、ハッキリ言って、もうこうなったらイスラム教禁止令なんかを国連でやってくれませんか、
地球と世界の平和の為に、これ以上バカげた何の罪も落度も無い人々が殺されることを阻止する為に、私は改心しました」
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実は私もいくつかの宗教を信じ、盲信した経験がある。
一度 どっぷりと信仰してしまうと、そこからなかなか抜け出せない。宗教は阿片であるとマルクスが言ったように、心の麻薬性が強く、神にすべてを依存して生きていくようになり、神なしではとても生きられなくなるのである。
だが、十数年かけて、そこから抜け出るには、特に教祖のスキャンダルがないと、その宗教がおかしいとは気が付かないものであった。
イスラム教においても、その信徒や指導者が、残忍な行為をするのは、まさに教祖のスキャンダルと同じであり、そうした凶悪な事件がないと、その宗教が根本的に間違ったものであるという疑問がわかないのである。
イスラム教に限らず、どんな宗教にも一長一短があり、絶対的に正しい宗教なんてあるものではない。まして、アラーの神だけが唯一絶対の神だと、この科学的な時代にあって、信じることさえ、すぐに盲信であると気がつくものだが、それがなかなかできないのが、麻薬と同じ宗教依存症という心の病気であるからだ。
本当に辛いことであり、そこから脱却するには相当の年月と、深い思索と、しっかりと現実をみることが必要である。
まず 「人にとって何が一番大切なのか?」「それは神であろうか?」「人の命であろうか?」
そこから問いかけていくことが必要であろう。そして、「神とは何か?」そこまで、探っていくことが、神への依存症から脱却する地道な方法である。