常に二つの相反する姿が在る

自宅の窓から見える風景で、川の水面が凍っている。この水は東京の多摩川に流れていく。

 毎日、経済学のある面を勉強したり、考えたりしている。そんな自分にびっくりする。昔の自分にはまったく想像できないことだった。お金にはまったくのほど無頓着だったからだ。ゲゼルの言い分と同じで、お金に関する学問なんかは、科学や宗教のような学問に比べて、あまり重要でないと思っていた。

 それは自分がお金に困った経験がなかったからかもしれない。事業はうまくいかなくても、それで全財産を失うほどの失敗はしたことがない。親の資産を受け継いだことで、どれほど生活が楽になったことだろう。逆に、親の資産が負の遺産だとしたら、子供はどれほど苦労することか、想像できてしまう。

 子供のころ、なんでも金金という親に反発したことがある。また、高度成長時代の金でなんでも押し通す姿に、へきれきした記憶もある。受験戦争のまっただなか、世相が「愛は金で買えない」ということがテーマで、たくさんのドラマや映画が作られた。

 先日、学園闘争ふきあれる東大をテレヂで娘とみていた。そのとき、私は「ああ、なつかしい風景だなあ!」とつい叫んでしまったら、娘がびっくりしてしまった。「なんで、あんなことをしたの?」という問いに、「なんでかなあ??・・・・青春の世の中に対する反発かなあ・・・ただそれだけだったような感じがする」と答えた。私はちょうど高校生のとき、その母校の講堂でなにやら叫んだ記憶があるからだ。そして、そのころの学校教育のあり方そのものに反発して、校長室にどなりこんだこともあった。

 基本的にこのころは、世界が二分され、冷たい戦争のまっただなかだった。闘争の主流は革マル派といって、マルクス革命だったように思う。そのため、資本論は学生のバイブルだったが、その難解さに、最初の1ページでつまづいた学生も多かった。私もその一人だ。

 下の娘もあと2ヶ月余りで高校生になり、姉と住むので、私はここで一人暮らしになる。この村は一人暮らしの老人が多い。私はそんな仲間入りになったのかもしれない。村人に、必ず聞かれるのが「娘のところに引っ越しするのか?」である。私は残るというと、みな不思議そうな顔をする。

 こうした二つの選択肢はどんな場面でもあるようだ。すべての行為と判断を煮詰めてしまうと、「生きるか、死ぬか どっちにするの?」という問いになる。両者は常に相反する事象である。この相矛盾する両者は生きているすべてに適応されている。

 貨幣システムにおいては、「実体経済と金融経済」、ベーシックインカムにおいては「労働と所得」、人間については「心と身体」である。世界においては「戦争と平和」である。モラルにおいては「善と悪」である。学問においては「宗教と科学」である。

 それらのどちらもとっても、完全な片方は存在しないし、存在できない、それはその両者ははっきりと分離できないということである。その両者を白と黒の色で表せば、その境界線は灰色になって混ざってしまうのである。そのため、両者のはっきりとした区分ができないため、それを明暗のような暗さ明るさの数値で表すしかできなくなる。

 しかも、その明るさの度合いは、それが相手によって、みな適切な度合いが違ってくる。オリンピックなどのスポーツは戦争の度合いが多い方がよく、実際の国際紛争には平和の度合いが多いほうがよいようなものである。

 貨幣は「モノとサービスを交換するためにお金」と「お金でお金を増やすお金」の両面がある。両者は生と死の性質の違いがあるほど矛盾するのに、一緒になって使われている。これが多くの経済的社会問題を引き起こしている。今回の金融危機は「お金がお金を生み出す投資の問題」だったのに、それが、「需要と供給の問題」にまで発展しまっている。

 それを解決させようと政策がされるが、その政策があまりにも原始的な技術のようなものが多いように思われる。たくさんの経済学者がいるのに、どうして、その政策が有効だとはっきりと国民の一人でも説明できない内容になってしまうのだろう。

 みんなお金を使っているのに、そのお金のことに対する知識や法律を知らない。お金は多くのパソコンや家電のような複雑な機械ではないのだから、もっと簡単に理解できてもよさそうなものだが、それが経済学というものに変化するだけで尻込みしていまう。ちょうど、マルクスの資本論を読まねば経済学が理解できないように。

 私だって、大学の経済学の教科書なんかはまったく読む気が起きない。そこで、興味がわくものしか、読まないことにしている。それもやっと3冊しか読んでいない。しゃくにさわったので、放送大学に入学して経済学を勉強しようと思って、その放送の一つを聴講しても、まったくつまらないので、ばかばかしくなる。自分なりに勉強するしかやる気がおきないのだ。これはきっと教育方針にかなり問題があるのではなかろうか。上の娘が学校の授業にまったく興味もわかなく、勉強しなくなるのも実にうなづける。だから、テレビで、「もっとも受けたくなる授業」という人気番組が生まれるのだろう。

 ともあれ、コツコツと自分なりに経済学を勉強していくしかない。それにしても、同じ興味をもつ人とのコミュニケーションは実に勉強を楽しくさせてくれる。mixiさまさまだ。そこで、少しでも話すと、いろいろなアイデアが出てくる。今回は「神様ポイント」なるものを考案できた。

 お金よりももっと価値のある神様ポイントである。

詳しくは徒然草に書いた。

http://sasaduka.com/gonta/zuisou01.htm

「お金を獲得する自由競争」と、「お金を等しく配分する税」とは相矛盾するので、その両者とも納得させる「新しい愛のお金」が「神様ポイント」がどうしても必要になったからだ。

人間は横の等しい関係と、縦の上下関係の両方がある。人を公平にするのは税と社会保障であり、人を上下関係にするのは能力と社会貢献度である。 神様を設定すると人の上下関係や理性や競争が生まれる。 人間らしさを設定すると平等と平和が生まれる。

 そこで、現在の貨幣に二面性に合わせて、人間らしさである平等の配分を現金(実体経済)とし、上下関係・高低配分を債権(金融経済)を神様ポイントにすれば、人をなんとか納得できそうに思える。

 人は自分という名を持つ神様の性質と、命という他と一体の自他・・人間らしさの性質を両方もっているからだ。それを一つのお金ではどうしても表現できないし、使いこなせないので、お金の使い道に合わせた二つのお金を作ることしか、両者を調和させる技術が生まれないように思える。

 そこで、お金を人間にたとえれば、

身体に当たるお金が現金(国で印刷された銀行券)

心の当たるお金が信用証券(お金の貸し借りや売買で生じる証券・金融資産)

に分けて流通させ、その両者の交換率は、ケースバイケースで、その関係者でなされればいいだろう。

金持ちから貧乏人にお金を回す仕組み・・・その税による公平な配分を主に現金で行い、その公平さが難しい部分を、新しいお金(神様ポイント)で調整をとれば、なんとか、労働と所得を区別をして、その両者を調和させることができる。

 それにしても、こうした経済学を考察すればするほど、高度の発展した科学技術に比べて、経済学はあまりに原始的な学問に思えてならない。宗教における原始宗教みたいなまじないや占いの技術みたいなものにみえる。今の総理の発言も、そのまじないや占いみたいなものにみえてならない。

 

 

 

 

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