物事の意味を問うたりする時
「それは何のために?」するのかと、繰り返し問いかけることが
その物事を整理して考えることができる。
例えば、
稲の種籾を撒くとすると、
それは何のために?
お金を得る為!
それは何のために?
食べるため!
それは何のために?
生きるため!
それは何のために?
生きるそれ以上の目的はない!
生きることが最終目的である!
そして、物事の意味と価値の重要度は最終目的に近いほど大きくなる。
中学生で自我に目覚めた時
「何のために生きるの?」
と、悩み続けたことがある。
それは生まれ出ずる悩みのように
その答えが出ずに、ノイローゼになり、精神病院に数ヶ月入院したことがある。
当時、数学が得意だったので、問題をとくコツを答えが出ない数字をXとして代入して、数式を書き、それを計算していくと、最終的にxが何かが解ることを応用した。
「何のために生きるの?」
という答えをXに代入したのだ。
「とにかく今生きていれば、いつか必ずその答えが解るはずだ!」
それから半世紀生きてきて、
そのX・・・「何の為に生きるのか?」
が解った!
「生きること自体が目的であり、それが最終目的である」
と!
「何の為に?」という問い自体が成立しない、問題提起そのものが間違っていたと判明した。
では
「何の為に死ぬのか?」という問いは成立するだろうか?
上記の写真は麦が実り、枯れていくーつまりー死んでいく姿である。
麦はこう答えるだろう!
「また多く生まれ変わるためだ!」
と。同じ命を持つ人も同じ答えを見出すだろう。
「また生きるため! 」
それが最終目的であり、死ぬ目的とはまた生きる為なのである。