罪を憎んで人を憎まず

「罪を憎んで人を憎まず」という意味は

故事ことわざ辞典

出典は

1.『孔叢子』刑論にある孔子の言葉「

「古之聴訟者、悪其意、不悪其人」

(昔の裁判所では訴訟を取り裁くとき、罪人の心情は憎んだが人そのものは憎まなかったの意味)」から。
「憎む」は「悪む」とも書く。

 

2.聖書(ヨハネ福音書8章)にも「罪を憎んでも人を憎まず」という言葉があり、孔子の「罪を憎んで人を憎まず」と同じ意味と解釈される。

 

孔子から探っていくと

「子日、伯夷・叔斉、不念旧悪。怨用是希也」

(子(し) 日(のたま)わく、伯夷(はくい)・叔斉(しゅくせい)は、旧悪(きゅうあく)を念(おも)わず。怨(うらみ)是(ここ)を用(もっ)て希(まれ)なり)

(孔子いわく、「伯夷と叔斉は、人の過去の罪を憎んでも人を憎むような人ではなかった。このため人から怨まれたりするようなことは殆どありませんでした」)

「罪を憎んで人を憎まず」というのは、孔子においては、「二度と罪を犯さないようにする裁判をする」ということが重要という意味になるだろう。

一方、イエスにおいては

人を憎まず罪を憎め(ヨハネ第8章)

人を憎まず罪を憎め(ヨハネ第8章)

「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この不倫した女に石を投げなさい」

人はすべて罪人であり、罪の全くない神様のように人を裁くことはできないから、その罪を赦してあげなさいという意味合いが強いが、イエスは最後に不倫した女に

「もう二度と罪を犯してはならない」とくぎを刺すので、孔子と同じ意味合いになってくる。

さて、ここからが本題だが、

「正当防衛」は本当に正しい裁きなのか?

二度と殺人という罪を起させない裁きなのか?

 

自分を殺そうとする人を殺しても良い(個人的自衛権)

また最近、憲法解釈を曲げて法制化した

私の友人を殺そうとする人を私は殺しても良いのか?(集団的自衛権)

 

どんな理由があるにせよ、殺人という行為は最大の罪であることは世界共通の認識である。

自分の命を守ろうとして、自分も殺人者という犯罪者にもなっていいのか?

また、自分を殺そうとする人を殺して、本当に自分の命を守り切れるのか?

 

古今東西を検証してみたら、正当防衛が「恨みの連鎖」となって、それ逆効果になっているといる。

正当防衛はけして防衛にはならず逆効果であることが解る。

では、

「自分を 友人を殺されそうになったら、最も安全に守るにはどうしたらいいのか?」

「殺す行為を止めても、けしてその人を殺してはならない」

「殺人という罪を憎んでも、けして その人を憎んではならない」

これが、本当の正当防衛になる行為であり、最も安全な防衛である。

将棋の駒のように、反省した罪人は良き味方となって守ってくれるというのも

個人東西には多くみられる事実でもある。

 

正当防衛という誤解と誤信は善意を悪意に替えてしまう。

それはイスラム教の聖戦を自爆テロに替えてしまうようなものである。

 

 

 

 

 

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