WhatとHowは優劣なく重要だ

麦刈り後に陸稲を直播して育つかどうか?

今年はそれを試した。

結果、播いた種の十分の一は育ったが、残りは死に絶えた。

そこで、失敗した時の容易した苗を植えたが、

その苗もほとんど枯れ果ててしまった。

急きょ、少し残しておいた稲種籾で苗を作り、

昨年成功した方法で、苗を植えたら、

なんとか枯れずに、育ち始めた。

二度目の稲苗植え7月11日2016年

二度目の稲苗植え7月11日2016年

種、そして苗、やり方変えて再度苗と三度目の挑戦である。

稲種が育つには、稲種そのものも重要だが、

その稲種をどう育てるかも同じく重要だと気が付かされた。

それは稲種が命、そして、種の育て方が生き方としても、そう言える!

人間にとって、この世で最も大事なものは人の命であるとずっと思っていた。

命とは肉体のことである。だが、肉体より魂を大事にする人もいる。

それは唯物論と唯心論の違いみたいなものであるが、

肉体の命と同じくらい重要視される魂だが、それは心と同じでまことにとらえにくいものであるが、

ひょっとして、

生き方を魂とすればはっきりととらえることができる。

命と同じく、その生き方も大事であり、宝であると言えるのではないだろうか!

 

私が10代の頃、精神病院に入院するくらい悩まされた問題は

「何のために生きるのか?」だった。

その問題を

「いかに生きるべきか?」

に替えて、この人生を60代の今日まで乗り切った。

つまり、What is Life? ではなく、How to live?

命はWhat . 生き方はHowである。WhatもHowも優劣なく重要だというであり、

いわば、命Whatとその生き方Howは車の両輪みたいなものである。

 

「平和のための戦争」という論理は正当だろうか?

「目的のためには手段を選らず」という論理もそうだ!

目的はWhat 手段はHowである。

目的と手段は、優劣なく同等に大事であり、両者は車の両輪であるように。

ならば、

「平和のための戦争」は自己矛盾に陥り、それは「戦争のための戦争」になる。

「平和のための平和的手段」しか、正当な判断はないのである。

これは

その手段をみれば、その目的が解るともいえる。

平和聖戦のための自爆テロは自己矛盾で、戦争テロのための自爆テロでしかない。

また、目的と手段が異なっていれば、それは無意味か危険な行為である。

 

 

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