麦刈り後に陸稲を直播して育つかどうか?
今年はそれを試した。
結果、播いた種の十分の一は育ったが、残りは死に絶えた。
そこで、失敗した時の容易した苗を植えたが、
その苗もほとんど枯れ果ててしまった。
急きょ、少し残しておいた稲種籾で苗を作り、
昨年成功した方法で、苗を植えたら、
なんとか枯れずに、育ち始めた。
種、そして苗、やり方変えて再度苗と三度目の挑戦である。
稲種が育つには、稲種そのものも重要だが、
その稲種をどう育てるかも同じく重要だと気が付かされた。
それは稲種が命、そして、種の育て方が生き方としても、そう言える!
人間にとって、この世で最も大事なものは人の命であるとずっと思っていた。
命とは肉体のことである。だが、肉体より魂を大事にする人もいる。
それは唯物論と唯心論の違いみたいなものであるが、
肉体の命と同じくらい重要視される魂だが、それは心と同じでまことにとらえにくいものであるが、
ひょっとして、
生き方を魂とすればはっきりととらえることができる。
命と同じく、その生き方も大事であり、宝であると言えるのではないだろうか!
私が10代の頃、精神病院に入院するくらい悩まされた問題は
「何のために生きるのか?」だった。
その問題を
「いかに生きるべきか?」
に替えて、この人生を60代の今日まで乗り切った。
つまり、What is Life? ではなく、How to live?
命はWhat . 生き方はHowである。WhatもHowも優劣なく重要だというであり、
いわば、命Whatとその生き方Howは車の両輪みたいなものである。
「平和のための戦争」という論理は正当だろうか?
「目的のためには手段を選らず」という論理もそうだ!
目的はWhat 手段はHowである。
目的と手段は、優劣なく同等に大事であり、両者は車の両輪であるように。
ならば、
「平和のための戦争」は自己矛盾に陥り、それは「戦争のための戦争」になる。
「平和のための平和的手段」しか、正当な判断はないのである。
これは
その手段をみれば、その目的が解るともいえる。
平和聖戦のための自爆テロは自己矛盾で、戦争テロのための自爆テロでしかない。
また、目的と手段が異なっていれば、それは無意味か危険な行為である。