その死も次の生の糧にこそバランスがとれ

穴あきマルチシートに、直播して、そこから生える雑草は作物と同じくらいの量が採れる。

通常の草刈とは違って、稲の脇に大きく繁茂した雑草なので、根っこから引き抜く方法で、雑草採りをする。

それを山積みにし、バーク堆肥と培養土をふりかけて、ヨーグルトのように発酵培養させることにした。

根から引き抜いた雑草を道路に山積みし、そこに剪定バーク堆肥と培養土を振りかけて、発酵堆肥の挑戦

根から引き抜いた雑草を道路に山積みし、そこに剪定バーク堆肥と培養土を振りかけて、発酵堆肥の挑戦

雑草を引き抜くときは、まだ種ができていない実る前に行った。

種ができていたら、別に乾燥して燃やして、灰にした方がより安全だろう。

発酵のための水は天然の雨にまかすことにした。

 

以前、雑草を摂らないで稲と共存できると思っていたら、稲は全滅、雑草天国になっていた。

稲と共存できないのは主に同じイネ科の雑草で、稲の発芽の後から、稲以上に高く、広く繁茂して、稲を枯らしてしまった。

雑草の種は主に風で飛んでいき、地中でも数年は生き続けるようだ。そのため、種は途切れることなく、根こそぎ抜いても抜いてもすぐに生長して、稲よりも大きく繁茂しだす。

雑草を稲の堆肥にすることで、雑草は稲の敵ではなく、味方にすることができる。

稲と雑草はまさに人の戦争のように殺し合うが、その戦争を将棋のように敵を味方にすることができるゲームと、チェスのように、敵を殺すしかできないゲームにもなりえる。

命の生死においても、その死を糧にした生にするか、その死をなんら意味もない死にするかは、人の知性がなせることである。

自然は人の手を借りずとも、生死のバランスをとって、あたかも生と死はコインの裏表のように存在し、それが命として永続していく。

人を構成する細胞は毎日新陳代謝して、生死は交代して、寿命を全うする。

死は常に次の生のためのものであるのが、自然の命の姿でもある。人はそうした自然の子でもあるから、自然に学び、その死を次の生のための糧にした生き方こそ、健全な生活なのであろう。

 

 

 

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