一体 死んだらどうなるのだろうか?
なにもかも無くなってしまうのだろうか?
人は死んで焼かれても、それは灰と水と二酸化炭素など、地球上の土水火空気に変化するともいえる。空気なんかは見えないが、窒素酸素二酸化炭素など存在している。それは風が吹くことによって感じ捉えることができる。
人間も物質ではあるから、それは質量を含めたエネルギー保存の法則が成り立つともいえるので、人は死んでも何もかも無くなるのではなく、別なモノの変貌するといえるだろう。
では、存在と無と対比した場合、無とは何であろうか?
平面に縦横の栓を引くと、その始まりと終わりは書き手の人間が勝手に決めているが、直線を無限に延長したら、実際はどうなるのだろうか?
地球は丸く、経度と緯度の線となり、始まりと終わりは結ばれ、同じ位置になる。しかも、経度線と緯度線の始まりと終わりは北極と南極では結ばれ、同じ地点になる。
つまり、どんな直線も無限に伸ばすと円となって、起点と終点が同じになる。
それを立体的な縦と横線に、高さ線を追加し、その三線が円として起点終点が同じ地点になるという形を作ってみる。
もし、時間軸を入れた四次元で同じ地点で交わるには ドーナツを四つ合わせてみれば可能である。
宇宙の姿をみると、
月は地球を回るドーナツであり、地球や他の惑星は太陽を廻るドーナツであり、太陽は銀河系を巡り、銀河系は小宇宙を、小宇宙は大宇宙を巡ると想定でき、宇宙の始まりと終わりも結びつき、同一点になるともいえる。
無限とは直線が円として結びつく知覚であるといえる、
そして、
無は何もないのではなく、それおれの起点であり、終点でもある基点だといえる。
例えば、ここに「そのコップが存在する」と、
「そのコップが無い」とは「そのコップがその地点から移動する」か、また「そのコップが壊れて別なカケラ形になる」というだけで、そのコップという概念も素材もまったく無くなったわけではない。
人が死んでも、それが灰に変化し、その想い出が残るのもそのためである。
ある者は死んでも、ある者は生まれてくる。地球上の生物が全滅しても、新たな生物が生まれてくるのも、地球の数億年の歴史でもある。星は爆発して死んでも、また星は誕生する。
この世界宇宙のどこにも「まったく何も無い」状態はなく、その「無の状態」というのは数字でいう基点となる「0 、ゼロ」のことである。また無限も「0+0=∞」であり、それはやはり起点と終点となる基点にすぎない。
この宇宙世界に絶対的存在はありえないように、絶対無などはなく、それがあるといえるのは、「存在する始めと終わり」と基点として仮定できるということである。
絶対的存在を神と仮定できるように、絶対的無も基点終点としての基点として仮定できるというもので、どちらも実際に実存また実無しているわけではない。