般遊という言葉は
中国の西暦87年から139年に生きた張衡の「田園に帰ろう」という詩で使われている。
いつしか 日は西に傾き、月さし昇る。心ゆくまで般遊(楽しく遊び)し、暮れがたになるも少しも疲れを感じない
~~~ 執らわれぬ境地に 心を解き放つならば この世の栄誉(ほまれ)も恥辱(はじ)も 問うところではない。
自然に帰って、心行くまで般遊すると、少しも疲れも感じないばかりか、どんな気苦労も問題も気にならなくなる。まさに、健康と自然の境地が般遊にあるといえるだろう。
この般遊という言葉を教えてもらったのは「汚な美」の博山老である。84歳ながら朝の5時まで語り、イモ焼酎を持ち明かしても、2時間も寝れば元気になる。そんな博山老の健康と元気の秘訣を探ろうと、私は酒が飲めないが、朝5時まで語らいを付き合い、やっと「般遊(ばんゆう)」という言葉が聞けて、そのなぞが解けたのである。
般遊を盤遊という文字にすると、楽しく遊ぶことを信条として生きるような意味合いが強くなるが、それだと、般遊という意味あいが狭く、そうした信条にもこだわってしまう意味になるので、
もっと大きく、もっとこだわらず、もっと分け合い、なにごとにもこだわらず、楽しく遊ぶという意味で、般遊の方が自然と健康の秘訣にはより有効であろう。
①「めぐる(周囲をまわる)」、「まわる」(例:般旋)
②「めぐらす(周りを囲ませる)」、「まわす」
③「運ぶ」、「移す」
④「もとへ戻る」、「引き返す」
⑤「久しい」
⑥「ぐずぐずして進まない」、「あちこち歩き回る」
⑦「楽しむ」
⑧「大きい」
⑨「種類」(例:一般、全般、百般)
⑩「広く行き渡らせる」
⑪「分ける」、「分け与える」
⑫「まだら(違った色が所々にまじっていたり、色に濃淡が
あったりすること)」
⑬「入り乱れる(多くのものがまじりあって混乱する)」
船頭さんが、竹竿で川底をつき、渡し船をおおきく回転させ、目的地に生かせる様をいうところから、
めぐる、運ぶ、帰るという船頭さんと、その渡し船に乗る風情を楽しむ、気持ちを分かり合う、いろいろな景色や人で出会う、見分が広がるというように大きく変化し汎用されていったのであろう。
張衡さん、博山さんも 般遊することで、何が良くて、何が悪いとか、何が恥で何が恥でないとか、何が綺麗で何が汚いとか、こうでなければならないとか、こうしなければいけないとかいうものはなにもないという境地になっていくようである。
般遊を歌にするなら「海の声」の替え歌がいいように思う。
空の声が 聞きたくて 風の声に 耳すませ 海の声が 知りたくて 君の声を 探してる |
空の青さに 引き込まれ 風のささやきに 耳すませ 海の叫びが 聞こえてくる 山も谷も 僕を待っている |
会えない そう思うほどに 会いたい が大きくなってゆく 川のつぶやき 山のささやき 君の声のように 感じるんだ |
旅できない そう思うほどに 旅したい が大きくなってゆく 川のつぶやき 山のささやき 自然が万有引力のように 引き寄せる |
目を閉じれば 聞こえてくる 君のコロコロした 笑い声 声に出せば 届きそうで 今日も 歌ってる 海の声にのせて |
目を閉じれば 見えてくる 春には桜 夏には水遊び 秋には紅葉 冬には雪の華 みんな私を待っている |
空の声が 聞きたくて 風の声に 耳すませ 海の声が 知りたくて 君の声を 探してる |
空の青さに 引き込まれ 風のささやきに 耳すませ 海の叫びが 聞こえてくる 山も谷も 僕を待っている |
波の中に浮かんでは消える
子供のように無邪気な笑い顔 たとえ僕がおじいさんになっても
ここで 歌ってる
君だけを想って
|
寄せては引き返す潮の子守歌
動物も草花ものんきに楽しんでいる いつしか僕が生まれ やがて消えても
また新しい僕が生まれてくる
誰かを恋して
|
海の声よ 風の声よ 空の声よ 太陽の声よ 川の声よ 山の声よ 僕の声を 乗せてゆけ |
海の声よ 風の声よ 空の声よ 太陽の声よ 川の声よ 山の声よ 僕の喜びを 乗せてゆけ |
海の声が 知りたくて
君の声を 探してる |
海の声が かりたてる
私の思いを 待っている |
海の声の歌詞は人への恋歌だが、般遊は自然への恋歌になってくる。
般遊を語る博山さんは駄洒落が好きで、それが解らなくて受けないと語るのをやめてしまう。
駄洒落が単に笑いの一つというだけでなく、駄洒落文化というものがあってもいいと思える。
イエスや釈迦が物事の真実を例え話で語ることで、人々は理解しやすいように、
駄洒落を通じて、物事の真実を直観的に理解しやすくなる。
この般遊もそうだ。これは万有引力の万有という駄洒落にも展開できる。
般と万は共通の意味であるが、遊と有は意味が違うが、共通するとして考えると実に生きている真実の姿が浮かび出てくる。
万有引力の法則を般遊愛力の自然法ともいえるからだ。
有は存在また自己の意があり、それは自由な存在として遊べる意味にも通じてくる。
悠々自適は優遊自適とも書き、「もんびり心静かに思うままに過ごす」意味である。
般遊はまさに優遊自適な生き方なのである。優遊自適な生活をどうしたら築けるかということが健康で自然な生き方につながってくる。
病気の80%はなんらかのストレスからきて、もしそんなストレスが感じられない生活習慣であれば、80%の健康は確保できるともいえるではないか。
般遊の生き方は若いときは難しく、老境になると自然にできてくる。
それは孤独を苦しみととらえるか、歓びととらえるかの違いでもある。般遊は自分の思うままに生きれる状態であるのは、自分は独りであって、他人の誰の圧力も障りも受けないで自立していることが確定条件である。
恋愛で二人うまくゴールインして、楽遊できても、ある時期から二人の方向性が違ってくると、逆に互いに縛り合い、地獄のような日々になってしまう。特に、他に依存関係ができてしまうと、それは般遊ができなくなってしまう。
自立とは自分を信じられる立場にいるということで、愛する人は信じられるが、自分を信じられない状態は依存症という病状だともいえるのである。
宗教がほとんど精神的依存症の症状に陥るのは、神様や教祖や先生を信じられても、自分が信じられなくて自己嫌悪とか、劣等感に押しつぶされるとか、著名人の考え方に依存しないと生きられない状態であるともいえる。
優遊自適、般遊な生き方をするには自信をもって、一人を楽しむこと、それは他の1人1人の自信を刺激してあげること、その真実をみせてあげることで、それが可能になってくる。
神を信じるか、自分を信じるか の違いで、神を信じる人は依存症になり、自分を信じる人は般遊で優遊自適な生活ができるといえるだろう。