何を信じればいいのか

健康と自然の集まりの中で

栄養学の大学院生が そこに集まっている人達の大学で学んだ知識とは真逆の考え方が多いことに戸惑い、彼が講義する時に、

「一体 貴方達は何を信じて生きていますか?」

と、問いかけから始まった。

古老の多くは 経験と言ったが、彼はそれでは納得せず、他に直感ともいう人が出て来たが、声高に

「科学的に実証されたことを信ずるべき」

と言ったが、その実証もあてにはならないのが、科学の歴史ではないかと論議は進んでしまい、討論だけの討論になってしまった。

この健康と自然の集まりに参加してくるのは、大学や世間の常識に対して可笑しいと思っている人が多く、自分の考えを強く押し出す人も多く、それに対抗できる自分の考えに自信がないと 、そうかもしれないと思い込まされてしまう。

こうした討論ができる場があることが、そもそも素晴らしいことで、他ではまったく、常識に流されるか、特殊な思想に洗脳されるかで、疑問同士が ぶつかり合えない。

そのため、ここで話される内容においては、自分で実験、また論理展開して、自分自身が納得できないと、それらを信じることはできないとなる。

また、彼らを納得させるには、実際にその場で、実証してみせる必要もでてくる。

ここでは、権威で信じさせることはできない、ムードがあり、参加者全員が講師であり、学生であるというような基本姿勢があるので、そこで何が飛び出すか、分からないのが魅力にもなっている。

神や人を信じるな! 自分自身を信じよ!

ということは、自分で実際に行動し、思索し、納得できたことを信じていくということが自信を持つということで、最初から自信なんかあるわけでも、できるわけではなく、たゆまぬ思考錯誤と、多くの挑戦とその成功と失敗から、積み上げてきた経験が信じられる根拠になってくる。

自信は一生かかって積み重ねられた経験によって築かれる。

科学的実験も 人の経験ではなく、自分の経験であることが、必要も不可欠であるともいえる。

科学におけるデータの改ざんもよくある犯罪であるから、即信用していいとは限らないだろう。

邪馬台国が奈良にあったというその住居跡をみたが、実際にみると余りにも小さいので、その話は信用できなくなった。これも自分の目で確かめなかったら単なる知識それを信じてしまっただろう。

 

 

 

カテゴリー: 徒然草, 社会問題, 自然に生きる パーマリンク