相対的な現象を広狭的な命題として捉えると解決策が見えてくる

数学1で、対偶証明と背理法という間接証明がある。

対偶証明と背理法の違い

対偶証明法とは、「AならばB」といった命題を直接証明することが難しい場合に、「対偶が真なら命題も真」であることを利用し、「BでないならばAでない」ことを証明する方法であり、

「背理法」とは、「~がAであることを証明せよ」という問題に際し、「Aでない」と仮定した場合に起きる矛盾を見つけることで、「Aである」ことを証明する方法である。

そもそも対偶とは何か? それをはっきりさせないとよく解らない!

ちなみに、Aを犬 Bを動物として、犬Aが動物Bに含まれるという命題を例にすると

『AならばBである』という前提に対して、
『BならばAである』を「逆」と言う。
『AでなければBではない』を「裏」と言う。
『BでなければAではない』を「対偶」と言う。

前提『AならばBである』が正しければ、
その「対偶」は常に正しい。
しかし「逆」と「裏」は正しいとは限らない。

「AはBである」という定義はAが狭義で、Bが広義である場合も使われる。

そのため、AがBに含まれるという場合、AはBであるが、Bが必ずしもAであるとは限らないので、逆は真ならずともいう。

それを解りやすく図式化すると

犬は動物に含まれるので、犬は動物であるとは言えるが、逆に動物がみな犬であるとは言えない。

しかし、対偶として、動物でないならば犬でもないとは真に言える。

この狭義広義の含まれるという概念はABの二種類だけでなく、何種類にも使える。

よく善悪などの正反する対照的な議論が平行線に陥る場合はそれらを大小や広狭で定義し、それを共有すればその論議は交わって協議発展もできてくる。

例えば、性善説と性悪説はどちらが正しいにか、卵と鶏はどっちが先かという平行線的な議論にも応用できる。

「人は神であり、悪魔でもある」という矛盾するかのようなことが本当のように語られてしまうと、実際にはどうしたらいいのか迷うことになる。

そこで、心の大きさに応じて、神と人と悪魔を定義してみる

悪魔 < 人 < 神様

心の小さい人は悪魔であり、心の大きい人は神様である。

鬼の目にも涙のように、悪魔は人であるが人はみな悪魔であるとは限らない。

人イエスが神キリストと崇められるように、人は神様であるが、神様がみな人であるとは限らない。

この広狭概念から性善説を適応すると

また 卵が先か鶏が先かという堂々巡りは

 

これらの広狭概念と論理は生物界にはまったく同一なものは存在しないが、無生物界にはまったく同一なものは存在する。

それは可動域の大きさによって、無生物と生物を定義することもできる

さらに、人の病気と健康の定義にも応用できる

また、金銭システムを金銀銅の命のない物としてとらえるか、生物としての命ある者としてとらえるかでも

それが病的か健全かを判断できてくる

戦争で無駄な金や血が流され、金儲け競争で、ほんの一部の細胞人に血のほとんどは集まり、他の多くの細胞人には血が廻らない金銭社会は病気であって、けして健全とは言えないだろう。

金銀銅を人に貸し借りできても、人の血を貸し借りなどできるだろうか? まして、利息が付いて回ることなんかありえるだろうか?

病人に輸血できても、病人がそのお礼に、健康な人に輸血できるだろうか? まして、輸血された以上の利息をつけて健康人に輸血返却できるだろうか?

かように、相対的な現象の問題解決には、広狭の命題定義からリセットして、再構築すると、そに解決策は見えてくるだろう。

 

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