ゴミ薪コンロとガスコンロ
毎朝起きてすぐゴミ薪コンロにゴミの紙とプラスチックごみに火をつけ
近所の休耕畑で伐採剪定し、斧とチェーンソーで切り分けた薪をくべて
鍋料理と珈琲用の湯を沸かしながら、朝食をとる。
この日課がなんとも心地よいのである。
ゴミ薪コンロではなく、家のガスコンロで調理していたときには味わえない生きている感動を呼び起こしてくれる。
便利さは必要を忘れる
一体、便利さってなんだろう? 便利さって必要あるのだろうか?
私は30数年便利屋をやってきたが、結局便利屋業務は解散せざるをえなかった。他の便利屋にしても成功持続しているのは一件もない。みな一時のアイデア商売にすぎない。
便利屋が社会から受け入れられなかったのは社会にとって必要がなかったためではないか?
もし、社会にとって必要があったなら、便利屋は持続成功していたはずである。
30数年に渡って、便利屋の仕事内容を振り返ってみても、本当に必要あったのか?と思えるものばかりである。
もともと、便利屋は本人に代わってやる代行屋である。本人がやるべきことを他人に金を使ってやらせることが多いのだ。もしくは、プロの業者に頼むと高額なので、安くアマチュア便利屋に頼んで低額ですませてしまおうというものでもある。
社会つまりお客にとって本当に必要のないことばかりだったと言い切れるのである。
便利さは自分にとって、他人まかせで解決してしまう必要なさではなかろうか?
残り汁を洗うな!次の汁のその味の命のバトンせよ!
食べきれない鍋料理がある。車中泊と車内調理していると、鍋などを水で洗うことが難しくなる。
水がとっても貴重になり、飲食に使う分だけで、洗い水にはもったいないので、
ゴミで出たキッチンタオルで吹いていた。その汚れたキッチンタオルはゴミコンロでの燃料になるが
キッチンタオルは買う必要があるかといえば、ない! 不要な服がたくさん出るのだから、それを細かくきった布切れにして、それをキッチンタオルとして使えばいい。
だが、そもそも鍋料理が終わって、その鍋の残りの汁を拭き取る必要があるのか?
老舗のラーメン屋さんは、残った汁を捨てずに、付け足すということで、その店しかない味を数百年と維持してきた。
つまり、今日はホウトウ汁だが、それが少々残っても、それに水を付け足して、カレー鍋にできる。
そういう繰り返しをすることで鍋を洗うことも、残り汁を拭き取ることも必要なくなる。
命は生き死にを繰り返すが、死をお清めとか洗いとかいうが、洗いとかお清めとかは必要なく、
命のバトンをすることが必要なのである。
汁が無くなることを死とし、新しい汁を生とすれば、その汁の味を遺伝子として次の汁にバトンすることが死の意味である。
つまり、鍋を洗うことも、汁を拭き取ることも必要ない、必要なのは残り汁を新しい汁へと引き継がせえることである。
死は命のバトン
残り汁を捨てるな、洗うな、拭き取るな! 次の汁にバトンせよ!
消し炭を次の火の命のバトンにせよ
家の中での囲炉裏生活を考えて、煙がでない炭づくりをしようとした。
その手間と時間とがかかるので、消し炭だけにした、
だが、
その消し炭だって、家の中で調理するのに必要だが、家の中で調理しないのなら必要ない。
結局
消し炭は次の火のバトン・・つまり命のバトンのように・・・するのが一番だと思った。
昔の炭焼きの仕事は用途が変わり、今はキャンプやバーベキューなどに使用する高級な炭が作られる。
だが、キャンプやバーベキューにしても、野外で料理するなら薪で十分である。
炭は着火や煙が目に沁みないので便利な薪にすぎない。
この便利さのための炭が生き残っているのは本来必要のないものを必要あるものかのように信じ込ませて、金銭を儲ける手段にしてしまっているとも考えられるのである。
いわば、他人まかせの便利屋である。自分の苦労と必要を他人に代行してやってもらう便利屋企業である。
ビジネスがみな「人の為に」・・「他人の為に」・・・と書いて、偽りと読む、偽りの企業が人の為、金儲けの為と信じて、その偽りの必要を需要と称して、需要の創造がビジネスの基本だと偉い学者がいい、それを信奉して起業する企業が次々大きくグローバル企業になって、世界の金銭と資産を支配している。
だが、お客や自分にとって、本来必要のない炭を人助け・人の為と信じ込ませて、たくさん生産消費させ、便利さと清潔さを売りに金儲け・銭ギャンブル遊びの手段としている。
炭は本来、薪を次の薪に火を付けるための火のバトンであり、それは薪という命のバトンでもある。
火の命のバトンを人の命を玩ぶ金銭欲望の火に変えてしまえば、悲惨な戦争や借金地獄にも陥ってしまう問題も多く産出してしまうのが世の徒然である。
その便利さは自分にとって本当に必要あるのか?
その便利さはその人にとって、本当に幸福にさせるものなのか?
より便利、より進歩、それは一体誰のための生きる幸せに繋がるのか?
便利さが自分にとって本当に必要なものを忘れさせてしまうならば、
その使い道を改めて考えなおそうではないか!