近くの山登りを行ってきた
頂上の向かって登っているとき
転ばないようにするには足元だけを注意して
地面と足の接地面がしっかりつけるかどうかを確認しながら登った。
時々、その接地面が頂上への道ではないと思えるとき、当たりを見渡し、正しい道か迷ったかを確認する。
そうしないと、
数メートル先や遠くをみて歩いていると、足元の石や根っこに躓いたり、落ち葉に滑ったりする。
いわば、よそ見して運転するようなものである。
手足腰に動きは無意識に動いている。
だが、どちらに歩くかという場合は、足は止まり、意識的に頂上への道が合っているかを確める。
つまり 意識は無意識で動く手足腰の方向を指し示すもので、意識が無意識を強制的に動かすものではない。
五臓六腑に動きも、いちいち意識的に動かしているのではなく、無意識に動いている。
そういう無意識に動くものは自然の動きであり、意識的に動かすものは人為的であるとも言える。
我々が技能というのは、無意識の動きを意識する方向に行かせるのではないか。
例えば、字をきれいに書こうとすると、そのバランスがある方向に無意識に動けるようにすることでもある。
ところが、そのバランスに関係なく、自分の癖で無意識に動く文字をかけば、きれいに書けない。
健康と病気を考えた場合、
例えば、美味しいものを意識して食べ過ぎてしまうと肥満になって病気に向かう。
美味しいものも意識して食べ過ぎないようにすると肥満にならずに健康に向かう。
煙草やギャンブルの依存症の場合、最初は意識的にそして、無意識に、煙草を吸いすぎになり、ギャンブルも賭け過ぎになった状態であるが、
それを意識的に禁煙したり、禁ギャンブルして、その忍耐が無意識に楽にできるようになった時に、健康健全になってくる。
つまり
意識が健康的に向かうか、病的に向かうかが最も大事であり、無意識が自然にそちらに向かうようにリハビリするのが治療であり、本人の努力=自己治癒なのだろう。
ただ、意識には力がない、ただの方向付けだけで、力があるのは無意識だけである。無意識はただ登山する手足腰のように繰り返し動くだけであり、エンジンのような動力である。だが、意識はハンドルであり、ハンドルに動力はない、タイヤの方向を変える小さな力しかない。その小さな力で、エンジンは回すことは不可能であり、それをしようとすれば、ハンドルは折れてしまうし、エンジンに吹き飛ばされてしまうだろう。
それは
政府と国民との関係にもいえる。政府は意識のハンドルであり、国民は無意識のエンジンである。
健康な心身も、健全な社会も、意識(人為的)と無意識(自然的)のきちんとした把握をすることをベースとすることが大切と思われる。