どんな訓練も教育も鍛錬も・・自分の無意識を自分の意識に従わせるか?
それを克己ともいう。無意識は才能であり、意識は努力である。
だが、古今東西、意識と無意識の戦いは永遠の課題にもなっており、意識が無意識に勝つことは不可能であり、自分に打ち克った状態を悟りともいうが、それは不可能なので 悟れず(不悟)と言い切ることができる。
「産婆たちと同様の事情で、ぼくは智慧を生めない身なのだ。
だから、既に多くの人たちがぼくを難じて、 他人にたずねるばかりで、自分は何の智慧もないものだから、 何ごとについても、自分一個の見識は示さないと言ったのは、 いかにもかれらの非難の通りである。
これにはしかし、次のような仔細があるのだ。 ぼくは取り上げの役を受け持つように、神が定め給い、 生む方の役は、封じてしまわれたのだ。
だからこそ、ぼく自身は、まったく少しの智慧もない身であり、 自分の精神が生んだもので、これといって智慧者めいた発見などは、 何もないのだ。
ところが、ぼくと交わりを結ぶ者はというと、 当初のうちこそ全然の無智と見える者もないではないが、 やがてこの交わりが進むにつれて、 神の許しさえあれば、 すべての者が、わが目にも他の目にも、驚くばかりの進歩を遂げることは、 疑いないのだ。
それがしかも、これは紛れもない事実なのだが、 ついぞこれまで、何ひとつとしてぼくから学んだというわけではなく、 ただ自分だけで、自分自身の許から、数々の美事なものを発見し、 出産してのことなのだ。
ただしそうは言っても、 その際の取り上げは神の御業であり、ぼくもまた、それには微力を 致しているのである」
意識は教師、無意識は生徒 知恵は自然の力
知恵は生まれる子であり、教師と生徒はお互いに話し合い(弁証法)しながら、いつのまにか、そこから知恵が生まれてくる。その知恵の赤子を生み出すのは神の御業である。
社会において方向性を示す意識は政府、実現するのは国民無意識である。
政府が常に正しいとは限らず、国民がまた常に正しいとは限らない。
それは教師と生徒との関係でもそうであろう。
ソクラテスの産婆術から見えてくるのは・・
意識と無意識を大いに語らせ合い、そこから新しい道・・自然の道を・・を生み出していくところに
本当の生きる道が見えてくる。
意識が悪い欲望から出た洗脳とか、教育、また法律もある。
だからこそ、意識で常に無意識を強制的に従わせようとすると、自然に背いてしまうし、本当の自然の道は開けてこない。
緩消法を産婆術に譬えてみると・・
筋肉は中心に向かって縮む一方向の力しかないが、
その筋肉を伸ばす力は対となる拮抗筋が縮むことで可能になる。
つまり、意識と無意識の関係は・・筋肉における相対する拮抗筋の関係になる。
筋肉とその拮抗筋はアンバランスなことが多く、一流のスポーツ選手はそのバランスをよくしようとして、拮抗筋が大きくなることが多い。
克己と鍛錬はいわば筋肉にように、意識と無意識のバランス(調和)をさせることによって、自然の力(意識+無意識)が働くことである。ソクラテスの弁証法でいえば、正反合は正は意識 反は無意識 合は知恵(自然力)である。
緩消法においては、
そこで、
指先1センチ幅を500g程の手の重さ位で、緊張物質が溜まって痛いところに圧し、2秒ごとの伸縮を繰り返すことで、緊張物質(痛み)を消していく。その伸縮は拮抗筋もともに行わわれ、調和させていく。
知覚される意識や感じられる無意識の動き(問題や痛み)はもっとも深い原因となるものがあることが多い。
それは筋肉全体が腰(丹田)中心に全身とつながっているように、その意識やその無意識の原因となるものを探して解消することも必要になってくる。
全身の重力や筋力の中心の丹田に緊張物質が溜まらないような無緊張状態にする
・・これが禅でいう空であり、、何にも捕らわれることなく自由に行動(伸縮自在)できる健康状態をいう。
例えば
ダイエットしようとするのは 意識・・筋力
食べたいという欲求は 無意識・・拮抗筋
両者を調和させ、どちらの葛藤を根本的に解決するのが・・
食事と運動のバランス、食事内容のバランス、生活リズムの安定化などを
ダイエットと食欲(リバウンド)を何度も繰り返し、そのストレス(葛藤・苦しみ)が無くなるまで
ゆっくりとやり続けることが自然な健康への道であろう。