原生林から始める

 農業を始めようと思って、農地を探していたら、その値段は宅地の3分の1で安い。それでも、坪2万円くらいするので、その生産性からすれば高すぎる。

 私としては農業経営をするつもりはない、ただどこまで自然と生活できるかを実験したいだけだ。農地には住めないので、農地の近くの空き屋を探していたら、知り合いが古民家を改造して、カフェと陶芸教室を開いていた。

 そこには、山梨大学の学生さんが集まってきて、芸術家の里のような開発が行われていた。テレビ放送され、そこの知名度もあがり、若い人が金土日になるとお茶と飲みに来る。

 ここはまことに山奥だ。でも、私の塩山の家から車で15分くらいで近い。ここに山梨県知事も訪問したことがあり、新しい山村の方向性を示しているので、裏の山林を畑にするための助成金2000万円おりたという。

 そこで、農地はお金を使うが、山林を畑にしたら、お金がもらえるというところに、着眼した。

 つまり、原生林から始めることが生産の原点ではないかと思ったのだ。

アマゾンの原生林を伐採して畑にしてしまうから、地球の環境が破壊され、将来砂漠化につながってくる。

日本の林業はまったくすたれてしまった。ほとんど、海外から木材を輸入している。輸入する前は、山を持っていると、金持ちといわれた。山の杉や檜を伐採して、高く売れたので、金持ちになれた。

 ところが、今杉や檜の私有林は手入れがされず、その花粉に泣かされる都会人が多くなっている。今山林を持っていても、税金を支払うだけのなんの利益も生み出さない。

 食料の自給率を上げる運動がされるが、住居の木材の自給率を上げる運動はされない。なんか変だ。

今、全国のダム事業は本当に必要があるのか見直されている。もとの川のままで、別な治水工事した方がより効果的であるという指摘である。

 自分で、生ゴミを処理することをしているが、これは火も電気も使わないで、楽にできる。火を使わないことが、自然との共生にはもっとも必要な気がしているのはこの経験があるからだ。

 環境にやさしいというのは、人は何もしないということではないだろうか?

人は無駄な開発をしているような気がしてならない。日本に農業が入る前の時代は狩猟生活の縄文の時代だった。蓄える観念が大きくなったのは農業中心の弥生からだ。

 お金の根本的変革は個人の貯蓄から、社会の貯蓄への改革である。これは生産にもいえて、弥生から縄文にもどって、もう一度安定的生産を考え直す必要があるように思える。

 狩猟生活の場合は、アイヌが指摘したように、「必要な分だけ採り取り、それ以上採らないこと」が、自然循環にはもっとも必要な考え方だ。しかし、農業は「必要以上のものをどんどん生産し、蓄え、それを売ってさらに儲けて豊かになっていく」ことが目標になるので、今の資本主義の基礎になったものだ。

 日本の原生林は広葉樹が多かったはずだ。しかし、住まいの木にはまっすぐな杉や檜が都合がいいので、そればかりが植林されていた。だが、曲がった木を使った住まいを考案すれば、もっと自然のやさしい事業ができたのではなかろうか?

 そこで、縄文時代の狩猟文化から現代までの生産を見つめ直したくなった。

 

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